「……だって、旦那様! わたし……わたし、旦那様をずっとお慕い申し上げていたのです……。あのときから、ずっと……。地獄のような環境で生きてまいりましたが……旦那様のことを思い出し、スケッチブックに描いているときだけは幸せを感じることができたのです……。そのお方が、まさかわたしの旦那様になられるお方だなんて! こんな偶然ってありますか? わたしの……わたしの惨めで寂しい人生に、こんな夢のような偶然が訪れるだなんて……!」

 そこまで一気に言うと、澄香は、わぁっと両手で顔を覆って泣き出してしまった。
 流唯はそっと澄香に近付くと、震える小さな頭を自分の身体に押し付け、ポンポンと撫でるように優しく叩いた。
 しばらくして我に返った澄香は、ごめんなさいっ! と姿勢を正す。
 ふと目をやると、流唯の上着は澄香の涙でぐっしょりと濡れていた。

「あ……上着が……わ、わたしったら、つい興奮してしまって……旦那様、申し訳ありません……」

(あぁ、わたしったら、旦那様の上等な上着を汚してしまったわ……。それに『お慕い申し上げていた』なんて告白をしてしまったうえに、実家での酷い暮らしぶりまで……恥ずかしい……)

 俯き小さくなっている澄香を見た流唯は、再び椅子にかけると、いっこうに構わない、とにこり微笑んだ。

「……構わないどころか、俺はいま最高に嬉しい。澄香がずっと俺のことを想っていてくれただなんて……こんなに幸せなことがあるだろうか!」

 流唯はその黒曜石のような瞳をさらに輝かせ、澄香をじっと見詰める。普段は白磁のような白い肌も、今はほんのりバラ色をしている。

「……旦那様……」

 ふたりの視線がテーブル越しに熱く絡み合う。

「――本当は、今すぐおまえを抱きしめたいところなのだが……そうすると、今日この部屋に来た目的を果たせなくなりそうだからな……」
 
 流唯はふっ、と口元を緩めると、椅子に深く座り直した。

「俺がおまえを救ったというのは、いつのことだ?」
「今から三年前です」
「俺が何からおまえを救ったのか、覚えているか?」
「はい……(やまこ)――猿のあやかしでした」

 そう答えると、流唯の肩がピクリと動いた。

「そうか……それは危なかった……」
 
 流唯は、ふぅーっと深く嘆息する。

「その日以来、おまえの身に変わったことは起きなかったか? なんでもいい。体質的なことでも能力的なことでも……」

 澄香は三年前の自分を頭に思い浮かべる。

(あの翌日、何かあったかしら……)

 その瞬間、橘花家の台所で顔を合わせた女中・タキの言葉や、女学校の先生、級友の言葉が澄香の脳裏に蘇ってきた――。

『ったく、無能のくせに朝寝坊するだなんて! おかげで私の仕事が増えちゃったじゃないの!』
『まったく、覇気のない陰気な子ね。妹の明莉さんとは大違いだわ』
『うわ、何?! 何かの病気なの? 無能なだけじゃなくて病気だなんて気持ち悪い!』

(――そうだわ、あの翌日からわたし、人の心が読めるようになったのだったわ……。ここに来てからは人間と関わることがほとんどなくなって、すっかり忘れていたけれど)

 彼女たちが自分に向けていた蔑みの眼差しを思い出し、澄香の胸はズキンと傷んだ。

「実は……あの翌日から、目を合わせた人間の心を読んでしまうようになりました……」

 澄香は胸のあたりを手でぎゅっと掴んだまま、震える声で告げた。

「――な……何だって!」

 流唯はそう叫ぶと立ち上がった。

「人間の心を読んでしまうって……それは、澄香が望んでいない場合でもか……? 目が合ってしまったら、勝手に相手の心の声が聞こえてくるということか?」

 こくりと頷く澄香。

「……」

 言葉を失った流唯は、ゆっくりと澄香に近付き、がくりと膝を折った。

「――だ、旦那様っ……?!」
「……澄香、本当にすまない……。すべて俺のせいなんだ……」

 床に膝をついて(こうべ)を垂れる流唯。

「だ、旦那様っ、お立ちください! 『俺のせい』って……どういう……」
 
 澄香は立ち上がって流唯の両肩を揺すり、なんとか立たせようとするも、まったく動かない。

「……澄香、落ち着いて聞いてくれ……。俺には――鬼京家次期当主には、ふたつの呪いがかけられているんだ」
「ふたつの……呪い、ですか?」

 澄香は流唯を立ち上がらせるのを諦め、自分も床に膝をつくと、そのまま正座の姿勢を取った。

「あぁ……ひとつ目は、もうおまえも知っているものだ。そしてふたつ目が『人間に触れることで、その人間の潜在的な霊力を目覚めさせる』というものだ」

「潜在的な、霊力……」

 まるでピンとこない澄香は、首を傾げて流唯の言葉を待つ。

「そうだ。ごく小さなものも含めると、人間の約八割には何らかの霊力が備わっていると言われている。その中でも、特に高い霊力をもつ人間ともなると、極一部に限られるというのが通説だ。そして、こういった高い霊力を有する人間は、誕生してすぐ、遅くとも六歳を迎える頃までには、その霊力を発現させるのが通常だ」

 流唯の言葉を聞きながら、澄香は両親が経営する橘花呉服店を思い出していた。
 生まれてすぐに店に連れてこられた明莉。
 客が訪れる度に、アァ~! と特定の反物(たんもの)を指差し、客の好みを両親に知らせていた――。

(明莉は生まれてすぐに高い霊力を発現していたわ。それに比べて私は、六歳を迎えても何の霊力も開花させることができなかった……)

 澄香はどこを見るでもなく、暗い瞳をただただ泳がせていた。

「だが、両親が不仲であったり、親に愛されない環境で生まれ育った子は、霊力を眠らせたまま大人になると言われている。そういう人間に触れることで、その眠っていた霊力を勝手に目覚めさせてしまう――それが俺にかけられたふたつ目の呪いだ」
「……」

 澄香は言葉を失っていた。

(母さんはわたしが二歳のときに亡くなった。赤ん坊のときのことはよく覚えていないけれど……母さんは、わたしが無能であるのを理由に、あの父親からグチグチ嫌味を言われていたとおタキさんから聞いたわ……。父親は霊力のある子がほしくて愛人――あの継母との間に明莉を設けたのよね……)

 そこまで考えて、澄香はハッ、と顔を上げて流唯を見た。

「では、人の心を読んでしまうというのは、わたしが潜在的に持っていた霊力……ということでしょうか……?」
「あぁ、そういうことだろう……。そして三年前のあの日、俺がおまえに触れたことで、その眠っていた霊力を呼び覚ましてしまったのだ……」

 流唯は膝を折ったまま、澄香に向かって頭を深く下げる。

「澄香……本当にすまない……! 俺のせいで……俺のせいで、しなくてもいい苦労をおまえにさせてしまった……。その霊力のせいで、相当つらい思いをしてきたのではないか……?」
 
 床にポツポツと(したた)り落ちる涙の粒。

「そんなっ、やめてください!」

 澄香は咄嗟(とっさ)に流唯にしがみつく。

「旦那様のせいなんかじゃ、ありませんっ! だいたい、あのとき旦那様がわたしを救ってくださらなかったら、今頃わたしは猿のあやかしの子供を産んでいるところでした! 旦那様のおかげで、こうして元気に生きていられて、そして旦那様の花嫁候補としてお側にいることができているのです!」
「……澄香……」