「その『人間に触れることで、その人間の潜在的な霊力を目覚めさせることがある』というのは、どの程度の接触を指すのでしょうか……?」
「それは文字どおりの『触れる』だ。指の先に少し触れた、というものまで含まれる」
 
 流唯は顎に手を当てたまま、宙を見やる。

(俺が澄香に初めて触れたのは、いつだ……? 鬼京家の屋敷に来てから割とすぐだった気がする。夕餉のときに頬に触れたのだったな……。あのとき澄香の身に何らかの変化が起きたはずだ。どのような霊力が発現したのか……。それが澄香を苦しめるようなものでないといいのだが……あぁ、澄香!)

 居ても立っても居られなくなった流唯は、勢いよく立ち上がった。だが、まだ父親に尋ねておかなければならないことがあることに気付き、再び腰を下ろす。

「私が目覚めさせてしまった霊力は、例の一万人ミッションを完遂することで消すことができるのでしょうか」
「あぁ。これも鬼京家次期当主にかけられた呪いのひとつだからな。ミッションに成功すれば、当然消滅する」

 父親の言葉に頷いた流唯だったが、どうしても拭えなかった疑問を最後にぶつけた。

「なぜこのことを五年前のあの日……私が二十歳を迎えた日に教えてくれなかったのです?」
「それは――」

 流霞はいったん言葉を切ると、息子の目をまっすぐに見て告げた。

「あまりにも酷だと思ったからだよ。さっきも言ったが、ひとつ目の呪いで、おまえは自分の妻になる人の心と体を丸ごと愛することができないという大きな(かせ)をはめられた。そして今、ふたつ目の呪いを知ったことで、おまえは自分が触れた人間の人生を狂わせることになるかもしれないという不安に常に(さいな)まれることになるだろう……。こんな酷なことを二十歳を迎えたばかりの息子に告げることは、私にはできなかった……」

 流霞は両手で顔を覆うと、嗚咽(おえつ)を漏らし始めた。

「――私にできることは、例のミッションを一日でも早く完遂し、忌々しいふたつの呪いを解くことだけです……!」 

 流唯は決意に満ちた低い声でそう告げると、いまだ顔を上げられない父親に一礼し、部屋を後にした。



◇◇◇

『――澄香……愛している。おまえを幸せにするためなら、俺のすべてを澄香、おまえに捧げよう』

 鬼京百貨店の屋上で流唯の熱い告白を受けてから、一週間が経過していた。
 自分の前でひざまずき、愛の言葉をささやく流唯の姿をあれから何度、澄香は脳内で再生しただろう……。
 その度に、キャーッ、と小さく叫ぶと、両手を扇子のように動かし熱を帯びた頬を冷ますのだった。

「まったく、見てられないよぉ~」

 ハチ香はベッドの上で夕餉後の毛繕いをしながら呆れたように呟いた。
 そんな幸せそうな様子を見せることが増えた澄香だったが、あの日、明莉と遭遇してしまったことから、レストランに通う勇気をすっかり失ってしまっていた。

(店に行けないのは確かに残念だけれど、あんなに贅沢なお料理を二度も味わわせていただけたんだもの。忘れないようにしなきゃ)

 澄香は食べた料理の見た目や味の特徴などを細かにメモし、早起きして調理しては流唯に食べてもらっていた。

(旦那様はいつも『すごく美味しい』と褒めてくださるけれど……やはり店で食べたものとは微妙に違うのよね。どこをどういうふうにしたら店の味にもっと近付くのかしら……)

 澄香が鉛筆とメモ紙を手に、ああでもない、こうでもないと首を捻っていると、コツコツとドアを叩く音がした。

「俺だ、少しいいか?」

 流唯の低い声に、澄香の心臓はドクンと一度、大きく跳ねる。
 姿見の前でささっと髪を直し、どうぞ、と答えると、ドアが開きスーツ姿の流唯が姿を現した。

(旦那様……今日もとってもステキだわ……)

 澄香は、ついうっとり見惚れてしまう。

「ここのところ、夕餉を一緒に取れなくて本当にすまない」

 流唯はそう言って、やや俯いた。

「そんな……お仕事がお忙しいのは存じておりますので……。それに、朝餉の席で毎朝お会いできていますから、それで十分幸せです」

 にこりと微笑む澄香を見て、流唯はふと口元を緩める。

「本当に、おまえを見ているととても癒される。不思議だな」

 流唯は澄香に近付きそっと抱き寄せると、頭をゆっくりと何度も撫でた。

「――今日はいろいろあったのだが……おかげでだいぶ元気になったよ、ありがとう」

 そう言うと、流唯は椅子に腰を下ろした。

「少し澄香に聞いておきたいことがあるんだ。……おまえも座りなさい」

 はい、と答え、澄香は隣の椅子にかけた。

「最近、体調の方はどうだ? 何か変わったことはないか」
「最近……ですか? いえ、特に変わったことは……」
「では、この家に来てからはどうだ? 実家にいた頃と何か違うことはないか? 体調だけではなく……こう、体質的に……いや、もっと言ってしまえば『能力的に』ということになるのだが」
「能力的に、ですか……特に変化はないと思いますが……」
 
 澄香は首を傾げながら答える。

「そんなはずは……何か小さなことでもいい。以前とは違うところはないだろうか」

 首を捻ったまま黙り込んでしまった澄香を見て、流唯は慌てたように言葉を継いだ。

「すまん、少し気が急いてしまったようだ。――別の質問をしよう。澄香、俺に会ったのは、この家にやってきたあの時が初めてだよな?」
「……!!」

 澄香は一瞬、呼吸を止めた。

(――とうとう……とうとう三年前のお話をするときがやってきたのだわ……!)

 澄香は黙って立ち上がると、棚からスケッチブックを取り出す。大事そうに胸に抱えながら戻ってくると口を開いた。

「実は……旦那様に以前、命を救っていただいたことがあります。ずっとお尋ねしたかったのですが、もし違っていたらどうしよう、となかなか勇気が出なくて……」

 澄香は一度、深呼吸をすると、スケッチブックを流唯に手渡しながら言った。

「――この方は、旦那様ですよ……ね?」

 スケッチブックを受け取り、最初のページに目を落とした瞬間、流唯のアーモンド型の瞳が大きく揺れた。

「――こ、これは……? おまえが描いたのか……?」
「はい……。どうしてもお顔を忘れたくなくて……」

 流唯は目を見開いたまま、スケッチブックを一枚一枚ゆっくりと(めく)っていく。

「あの……この方は、旦那様……ですよね?」

 澄香はじれったい気持ちを隠しきれずに口を開いた。
 すると流唯は、ふぅっと一度大きく嘆息すると、まっすぐ澄香を見て答えた。

「――あぁ、そうだ。これは俺だ」
「……あぁ! やっぱり、わたしを助けてくださったのは、旦那様だったのですね!」

 澄香は両手で頬を覆うと、やっぱり、やっぱり! と興奮した様子で繰り返している。

「なぜそのように嬉しそうにするのだ……?」

 流唯は今ひとつ合点(がてん)がいかないようで、首を捻っている。