◇◇◇

「あと3,591人か……」
 
 執務室の机に肘をつき、記録簿を見返しながら流唯は独りごちた。

(毎日三人救ったとしても、終わるまでにあと三年はかかるな……)

 ハァーッと嘆息した流唯は、ゆっくり立ち上がると窓辺に近付く。
 カーテンを少し開けると、空には黄色い三日月が輝いていた。

(あの三日月……まるで人が座れそうだな……)

 流唯は昼間、澄香と腰掛けていた百貨店屋上のベンチを思い出していた。

――『旦那様……わたしは……わたしは、構わないのですよ。寿命が削られたって、構いません』

 瞳に涙の膜を張り、自分を見詰める澄香――。

(……あんなことを言わせてしまうなんて、婚約者失格だよな)

 流唯は頭を掻きむしるとカーテンを閉め、再び椅子に腰掛ける。

(澄香が俺のやっていることを知ったらどう思うだろうか……あの子のことだ、心配しすぎて夜も眠れなくなるに違いない。――やはりもうしばらくは秘密にしておいた方がいいだろう)

 流唯は机上の記録簿を引き出しにしまい鍵をかけると、執務室を後にした。



 ――翌朝。
 鬼京グループ本社に出勤した流唯は、その足で会長室へと向かった。
 ドアをノックすると、入れ、という(かす)れた声が返ってきた。

「失礼します」

 流唯が一礼して中に入ると、そこには和服姿の痩せた中年男性の姿があった。

「――おまえが私の部屋に来るなんて、何年ぶりだろうか……」

 男は眩しいものでも見ているかのように、目を細めて流唯を見ている。
 一方の流唯は、目の前の男と視線が合うやいなや、すぐに目を逸らした。

(こうしてこの男の顔を見るのは、あの日以来だ……)



 ――そう、あれは五年前。流唯が二十歳の誕生日を迎えた日のことだ。
 流唯の父、流霞(るか)は当時四十五歳で鬼京グループの社長を務めていた。
 三十三歳のときに妻を亡くして以来、流霞は酒や煙草はもちろんのこと、夜を徹しての賭け麻雀など不摂生極まる生活を送っていた。
 それが祟ったのか、四十歳のときに大病を患い、以降は入退院を繰り返していたのだった。
 この日、社長室に呼ばれた流唯は、流霞からこう告げられた。

「流唯、私にはもう激務をこなす自信がない。今日からは、おまえが社長だ。私は会長となり、おまえを支える」

 突然の就任命令ではあったが、生まれたときから鬼京家の次期当主として育てられてきた流唯は動じることなくこれを承諾した。
 一連の事務手続きを終えると、流霞は流唯に近付き耳打ちした。

「――流唯、おまえにどうしても話しておかなければならないことがある。今夜、私の部屋にきてくれ」
 
 そう言われた流唯は、指定された時刻に自宅の父の部屋を訪れた。
 その夜、父の口から聞かされのが『代々鬼京家の次期当主には、愛する者に接吻すると相手の寿命を削ってしまうという呪いがかけられている』という到底信じがたい話だった。

「――よく飲み込めないのですが……俺には生まれたときからその呪いがかけられている、ということでしょうか」

 にわかには信じられないという気持ちで、流唯は父に尋ねた。

「いや、呪いが発現するのは、二十歳の誕生日とされている」

(……ということは、俺は今日から……?)

 まったく実感の湧かない流唯は、質問を続ける。

「それは……その呪いとやらは、どこかに記されているのですか? それとも口頭で代々伝えられているという類のものなのでしょうか」

 後者であればガセの可能性もある、という気持ちで流唯は父の顔を見た。

「あぁ。ここに記されている」

 父はそう言うと、茶色く変色し所々破れている書物のようなものを掲げ、そのうちのいちページを指差したのだった。

「――いったいなぜ……なぜ呪いなどというものがかけられてしまったのですか?」

 自分が何か悪いことでもしたというのか……苛立つ気持ちを必死で抑えながら、流唯は尋ねる。

「これは鬼京家の先祖が、ある呪術師と交わした契約書だ」

 父は手にしている書物に目をやると、言葉を継いだ。

「その男は『皇都随一の美女』と(うた)われたやんごとなき身分のお方に想いを寄せていたそうだ。だが、その女性には相思相愛のお相手がいてね……まぁ、男の横恋慕(よこれんぼ)だったわけだ……」

 父はそこで一度言葉を切ると、ハァーッと深く嘆息し、続けた。

「そこで、その男は腕利きの呪術師として皇都で名を馳せていた人物に大金を積んで依頼したんだよ――『二人の仲を引き裂き、その女性が俺を好きで好きでたまらない状態にしろ』とね……そして、その男はその女性を手に入れたそうだ」
「――その身勝手極まりない願望の代償が……俺たちにかけられた呪いっていうわけですか……?!」

 手をわなわなと震わせ、絞り出すように流唯は言った。

「そうだ。その男の長男の代から、鬼京家の当主には自分の妻となる女性の心と体を丸ごと愛することができないという『(かせ)』がはめられたのだよ……」

 言葉をなくし、ただ呆然と立ち尽くす息子に、父は(さと)すように続けた。

「だが、絶望することはない。実は……その呪いを解く方法があるんだ」
「――呪いを解く方法……?」
「あぁ……。それは『一万人の人間を救う』ことだ」
「人間を……ですか? 何から救うのでしょう。もしや……」
「そうだ。あやかしから救うのだ。おまえも知ってのとおり、この世には人間に害悪を及ぼすあやかしが、いまだ数多く存在している。人間の赤子を(さら)姑獲鳥(こかくちょう)、人の首に巻き付き窒息させる一反木綿(いったんもめん)、川や池に子供をおびき寄せ溺死させる河童、マスクをして人に近づき食い殺す口裂け女、少女を攫って自分の子供を産ませる(やまこ)、老人を言葉巧みに騙し金品を巻き上げる化け狸、それから人間に化けて男を誘惑し家庭を崩壊させる妖狐(ようこ)……数え上げれば切りが無い。こういったあやかしどもから人間を救ってやるのだ。一万人を救えたら、おまえにかかっている呪いは解かれる」

(い、一万人……?!)

 ごくりと唾を飲み込む音が、月明かりに照らされた部屋に響き渡る。

「おまえには火炎(かえん)の術や瞬間移動の術、そしてその強靭な肉体がある。やってやれないわけではないだろう」

 父は息子の目をまっすぐに見詰めている。

「――その呪いが解けないうちに愛する人ができて、その人に接吻をしてしまったなら……ど、どれくらいその女性の寿命を削ってしまうことになるのですか?」

 流唯は先ほどからずっと気になっていた疑問を投げかけた。

「……実はそれについてはわかっていないのだ」

 そう言って俯いた父を見た瞬間、流唯の頭にある疑念が芽生えた。

「――ひょっとして……」

 父はこれから何を言われるか察知したかのように、俯いたままだ。

「私が八歳のときに母さんが死んだのは……父さんが……母さんの寿命を縮めるようなことをしたからなのでは……?!」
「……」
 
 父は黙ったまま下を向いている。

「母さんは二十八歳という若さで死んだ。父さんが……父さんが私や芽唯を母さんに産ませたからなのではないですか?!……何も言わないということは、認めたということですね……?」

 流唯は、わなわなと体を震わせると拳を握りしめ叫んだ。

「私は……私はあなたを心から軽蔑します……!」

 流唯は踵を返すと、ドアを叩きつけるように閉め部屋を後にした。
 それからというもの、流唯が流霞と直接話をすることはなくなった――。