(――振り返りたくない)
澄香は無視し、ハチ香を起こそうとその細い身体を揺さぶる。
「まァ! 妹からの挨拶を無視するだなんて、それでも鬼京家次期当主の花嫁候補なのかしらァ~?」
そう言われてこれ以上無視できないと悟った澄香は、恐る恐る振り返る。
そこには身体を捻り、椅子の背に顎を乗せるようにしてこちらを見やる異母妹の姿があった。明莉は二十代後半とおぼしき男性と同席していた。
「そちらの方は、明莉さんのお姉様ですか?」
男性の声に、明莉はくるりとテーブルの方に向き直り、はい、としおらしく答える。
すると、その男性はおもむろに立ち上がり、澄香の方にやってきた。髪を七三分けにし、ロイド眼鏡をかけ、上質な濃紺のスーツに身を包んでいる。
「はじめまして。白河進一と申します」
「初めまして。橘花澄香です」
澄香も立ち上がり挨拶を返す。
「明莉さんとは結婚を前提にお付き合いさせていただいております。お姉様、なにとぞよろしくお願いいたします」
白河と目が合ったそのとき――。
(姉妹とはいっても、全然似てないんだなぁ……)
男の心の声が聞こえてきた。
澄香は慌てて目を逸らす。
「白河さん、お姉様は鬼京グループの次期当主の花嫁候補なんですのよ~。今はお試しで鬼京家に住まわせもらってるんですの~」
「あぁ、鬼京グループの……そうなんですね」
白河は再び澄香に会釈すると、明莉がいるテーブルへと戻っていく。
「それで、隣でお昼寝されている方はどなたですのォ? 次期当主の妹さんかどなたかかしらァ?」
明莉はフフンと鼻で笑うようにしてハチ香の方を顎で示した。身体を捻り、椅子の背に顎を乗せているため、白河にその表情を見られることはない。
澄香はハッとして、ハチ香の膝を叩く。
「ハチ香、ハチ香、起きて!」
「……ウ~ン……ウニャ~ン!」
やっと目を覚ましたハチ香は、そこがレストランだということも忘れたのか、両腕を思い切り伸ばし、ひとつ大きなあくびをした。
「オッホッホ! 嫌ですわァ~、ずいぶんと品のないお連れ様ですこと」
大きな声で言ったかと思うとすぐに声を潜め、「無能なお姉様にぴったりですわねェ」と囁いた。
背筋が寒くなった澄香は、早く出ましょう、とハチ香に小声で訴える。
すっかり眠気も覚め、猫らしい聴覚を取り戻したハチ香は、眼の前の派手な女が『無能なお姉様』と言ったのを聞き逃さなかった。
「ちょっと、そこのアンタ!」
「――なんですの? 『アンタ』ってまさか、わたくしのことですの?」
「そうよ! 『アンタ』と呼ばれるような人間、ここには『アンタ』しかいないでしょーがっ!」
ハチ香は少女の姿をしていることを忘れたのか、シャーッと喉元から凄まじい音を立て始めた。
「ヒィッ! ば、化け物ッ!」
「よくもアタシの澄香を『無能』と言ったわねぇ……澄香は無能なんかじゃないわ! アンタなんか足元にも及ばない、すっごい霊力を持ってるんだからっ!」
「……そんなわけないじゃないッ! お姉様は無能よ! 無能の引きこもりなのッ! ボロ切れをまとって納屋でメソメソ泣いているのがお似合いだわッ。なによ、そんな高価な着物、ちっとも似合っていなくて着物が泣いてるわッ!」
明莉はここがどこかを忘れたかのように、唾を飛ばして叫んでいる。
「……とうとう、アタシを本気で怒らせたわね……八つ裂きにしてやるっ!」
ハチ香は勢いよく立ち上がると、シャーッと威嚇しながら明莉に近付いた。穏やかな色をしていた瞳はいまや金色に光り、口元からは牙が覗いている。
「それにアンタが頭に付けているそのリボン! それは澄香のものよ! アンタ、どうやって盗んだのよっ」
明莉は白いレースのリボンに手をやると、周りをきょろきょろと見回し始めた。
「ハチ香、やめてっ! いいのよ、もう出ましょう」
澄香はハチ香の正面に立ち、そのすらりとした首に腕を回し抱きしめた。興奮してすっかり熱を帯びてしまった背中を、澄香は必死にさする。
「ハチ香、わたしのためにありがとう。でも、もういいのよ……」
少女の姿をした愛猫は、明莉を睨みつけたまま澄香の腕の中で震えている。
「まったく、何なのよッ! これだから化け物の一家は迷惑なのよねッ! 鬼だかなんだか知らないけれど、この世から消えてくれないかしらッ!」
明莉が吐き捨てるように言ったそのときだった。
「――鬼に消えてほしいのであれば、この店から出ていけ。ここは鬼族である鬼京グループの店だぞ。おまえのようなやつに料理を出してやる筋合いはない」
怒りを含んだ低い声が、入口から響いてきた。
そこには黒スーツに身を包み、怒りに燃えるアーモンド型の瞳を揺らして近付いてくる流唯の姿があった。
店の従業員たちは、彼に向かって一様に礼をしている。
「……旦那様っ……!」
「澄香、もう大丈夫だ」
流唯はハチ香を抱きしめたままの澄香の頭をポンポンと撫でるように叩いた。
「…『旦那様』ですって?! ではあなたが鬼京グループの次期当主……?」
明莉は目を大きく見開き、口に手を当てた。
「だったらなんだっていうんだ。おい、聞こえただろう。おまえのような者に出す料理はない。とっとと失せろ」
「――ば、化け物がわたくしにそんな口をきくだなんて、許さなくってよッ!」
「おまえも頭が悪いな。だから、ここはその『化け物』が経営する店なんだよ。周りを少しは見てみろ」
明莉がふと見回すと、女給のみならず、キッチン担当の従業員たちもフロアーに出てきており、みな一様に怒りに震える目で明莉を睨んでいた。
他の客たちも、何事かとヒソヒソ話しながら明莉を見ている。
「――明莉さん、ここはあなたの負けですよ。他の客の目もありますし、帰りましょう」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた白河は、明莉を立たせると流唯と澄香に一礼し、出口へと向かって行った。
「――ちょっと待て」
流唯の低い声が響き渡る。
「おまえが頭に付けているそのリボン……本当に、おまえのものか?」
「そうなのっ、ルイ! あれは澄香のだよっ! あの女が盗んだんだっ!」
興奮しすぎたせいで、しばしのあいだぐったりとしていたハチ香だったが、再び元気を取り戻しシャーッと喉を鳴らし始めた。
「し、知らないわよッ! これは元からわたくしのものよッ! 失礼ね!」
明莉が背を向けて帰ろうとしたそのときだった。
「――ち、違うわ……あ、あれは旦那様がわたしに……わたしにくださったものよ……! 明莉、お願いよ。返してちょうだい……」
澄香は前に数歩出ると、絞り出すように言った。
「――ッたく、さっきから聞いていれば、寄ってたかって人のことを泥棒扱いしてッ! お姉様? 自分の妹を泥棒扱いするだなんて、気でも触れましたの? そんなんだからお姉様は周りから嫌われて馬鹿にされるのですわよッ!」
「あ……」
澄香はその場に膝を付き、項垂れた。
(旦那様の前で……恥ずかしい……)
「わかったのなら、いいわ。それじゃッ」
明莉は腰を振って店の外へ出ていってしまった。
澄香は無視し、ハチ香を起こそうとその細い身体を揺さぶる。
「まァ! 妹からの挨拶を無視するだなんて、それでも鬼京家次期当主の花嫁候補なのかしらァ~?」
そう言われてこれ以上無視できないと悟った澄香は、恐る恐る振り返る。
そこには身体を捻り、椅子の背に顎を乗せるようにしてこちらを見やる異母妹の姿があった。明莉は二十代後半とおぼしき男性と同席していた。
「そちらの方は、明莉さんのお姉様ですか?」
男性の声に、明莉はくるりとテーブルの方に向き直り、はい、としおらしく答える。
すると、その男性はおもむろに立ち上がり、澄香の方にやってきた。髪を七三分けにし、ロイド眼鏡をかけ、上質な濃紺のスーツに身を包んでいる。
「はじめまして。白河進一と申します」
「初めまして。橘花澄香です」
澄香も立ち上がり挨拶を返す。
「明莉さんとは結婚を前提にお付き合いさせていただいております。お姉様、なにとぞよろしくお願いいたします」
白河と目が合ったそのとき――。
(姉妹とはいっても、全然似てないんだなぁ……)
男の心の声が聞こえてきた。
澄香は慌てて目を逸らす。
「白河さん、お姉様は鬼京グループの次期当主の花嫁候補なんですのよ~。今はお試しで鬼京家に住まわせもらってるんですの~」
「あぁ、鬼京グループの……そうなんですね」
白河は再び澄香に会釈すると、明莉がいるテーブルへと戻っていく。
「それで、隣でお昼寝されている方はどなたですのォ? 次期当主の妹さんかどなたかかしらァ?」
明莉はフフンと鼻で笑うようにしてハチ香の方を顎で示した。身体を捻り、椅子の背に顎を乗せているため、白河にその表情を見られることはない。
澄香はハッとして、ハチ香の膝を叩く。
「ハチ香、ハチ香、起きて!」
「……ウ~ン……ウニャ~ン!」
やっと目を覚ましたハチ香は、そこがレストランだということも忘れたのか、両腕を思い切り伸ばし、ひとつ大きなあくびをした。
「オッホッホ! 嫌ですわァ~、ずいぶんと品のないお連れ様ですこと」
大きな声で言ったかと思うとすぐに声を潜め、「無能なお姉様にぴったりですわねェ」と囁いた。
背筋が寒くなった澄香は、早く出ましょう、とハチ香に小声で訴える。
すっかり眠気も覚め、猫らしい聴覚を取り戻したハチ香は、眼の前の派手な女が『無能なお姉様』と言ったのを聞き逃さなかった。
「ちょっと、そこのアンタ!」
「――なんですの? 『アンタ』ってまさか、わたくしのことですの?」
「そうよ! 『アンタ』と呼ばれるような人間、ここには『アンタ』しかいないでしょーがっ!」
ハチ香は少女の姿をしていることを忘れたのか、シャーッと喉元から凄まじい音を立て始めた。
「ヒィッ! ば、化け物ッ!」
「よくもアタシの澄香を『無能』と言ったわねぇ……澄香は無能なんかじゃないわ! アンタなんか足元にも及ばない、すっごい霊力を持ってるんだからっ!」
「……そんなわけないじゃないッ! お姉様は無能よ! 無能の引きこもりなのッ! ボロ切れをまとって納屋でメソメソ泣いているのがお似合いだわッ。なによ、そんな高価な着物、ちっとも似合っていなくて着物が泣いてるわッ!」
明莉はここがどこかを忘れたかのように、唾を飛ばして叫んでいる。
「……とうとう、アタシを本気で怒らせたわね……八つ裂きにしてやるっ!」
ハチ香は勢いよく立ち上がると、シャーッと威嚇しながら明莉に近付いた。穏やかな色をしていた瞳はいまや金色に光り、口元からは牙が覗いている。
「それにアンタが頭に付けているそのリボン! それは澄香のものよ! アンタ、どうやって盗んだのよっ」
明莉は白いレースのリボンに手をやると、周りをきょろきょろと見回し始めた。
「ハチ香、やめてっ! いいのよ、もう出ましょう」
澄香はハチ香の正面に立ち、そのすらりとした首に腕を回し抱きしめた。興奮してすっかり熱を帯びてしまった背中を、澄香は必死にさする。
「ハチ香、わたしのためにありがとう。でも、もういいのよ……」
少女の姿をした愛猫は、明莉を睨みつけたまま澄香の腕の中で震えている。
「まったく、何なのよッ! これだから化け物の一家は迷惑なのよねッ! 鬼だかなんだか知らないけれど、この世から消えてくれないかしらッ!」
明莉が吐き捨てるように言ったそのときだった。
「――鬼に消えてほしいのであれば、この店から出ていけ。ここは鬼族である鬼京グループの店だぞ。おまえのようなやつに料理を出してやる筋合いはない」
怒りを含んだ低い声が、入口から響いてきた。
そこには黒スーツに身を包み、怒りに燃えるアーモンド型の瞳を揺らして近付いてくる流唯の姿があった。
店の従業員たちは、彼に向かって一様に礼をしている。
「……旦那様っ……!」
「澄香、もう大丈夫だ」
流唯はハチ香を抱きしめたままの澄香の頭をポンポンと撫でるように叩いた。
「…『旦那様』ですって?! ではあなたが鬼京グループの次期当主……?」
明莉は目を大きく見開き、口に手を当てた。
「だったらなんだっていうんだ。おい、聞こえただろう。おまえのような者に出す料理はない。とっとと失せろ」
「――ば、化け物がわたくしにそんな口をきくだなんて、許さなくってよッ!」
「おまえも頭が悪いな。だから、ここはその『化け物』が経営する店なんだよ。周りを少しは見てみろ」
明莉がふと見回すと、女給のみならず、キッチン担当の従業員たちもフロアーに出てきており、みな一様に怒りに震える目で明莉を睨んでいた。
他の客たちも、何事かとヒソヒソ話しながら明莉を見ている。
「――明莉さん、ここはあなたの負けですよ。他の客の目もありますし、帰りましょう」
それまで黙って事の成り行きを見守っていた白河は、明莉を立たせると流唯と澄香に一礼し、出口へと向かって行った。
「――ちょっと待て」
流唯の低い声が響き渡る。
「おまえが頭に付けているそのリボン……本当に、おまえのものか?」
「そうなのっ、ルイ! あれは澄香のだよっ! あの女が盗んだんだっ!」
興奮しすぎたせいで、しばしのあいだぐったりとしていたハチ香だったが、再び元気を取り戻しシャーッと喉を鳴らし始めた。
「し、知らないわよッ! これは元からわたくしのものよッ! 失礼ね!」
明莉が背を向けて帰ろうとしたそのときだった。
「――ち、違うわ……あ、あれは旦那様がわたしに……わたしにくださったものよ……! 明莉、お願いよ。返してちょうだい……」
澄香は前に数歩出ると、絞り出すように言った。
「――ッたく、さっきから聞いていれば、寄ってたかって人のことを泥棒扱いしてッ! お姉様? 自分の妹を泥棒扱いするだなんて、気でも触れましたの? そんなんだからお姉様は周りから嫌われて馬鹿にされるのですわよッ!」
「あ……」
澄香はその場に膝を付き、項垂れた。
(旦那様の前で……恥ずかしい……)
「わかったのなら、いいわ。それじゃッ」
明莉は腰を振って店の外へ出ていってしまった。