『お、俺は……惚れた女性に接吻をすると……相手の寿命を削ってしまうんだ……』
 
 二日前、絞り出すようにそう告げた流唯の姿を、澄香は事あるごとに思い出していた。
 あのとき澄香は二つほど質問をした。本当は尋ねたいことが他にも山程あった。

――いったいなぜそんなことに?!
――寿命を削るって……いったいどれくらいですか?!
――なんとかする方法はないのですか?

 しかし、澄香の唇は動かなかった。
 流唯の心中を思うと、あれ以上言葉が出てこなかったのだ。

(好きになってしまわないよう、わざと相手を避けるだなんて……旦那様、これまでどれだけ苦しくて寂しい思いをされてきたのだろう……お優しい方なだけに、相当お辛かったはずだわ)

 澄香は項垂(うなだ)れていた流唯の姿を思い出し、そっと涙ぐむ。

(何かわたしにできることはないのかしら……。旦那様が愛する方と心のままに愛し合うために、わたしにできること……)

 そう思った瞬間、澄香の脳裏に浮かんだのは、流唯から白いレースのリボンをプレゼントされた、あの朝の光景だった。

『澄香……俺はおまえが可愛くて、愛しくてたまらない。このままずっとこの家に――俺の隣にいてくれないだろうか』

(……旦那様は、わたしのことを……?)

 あの時、流唯の唇が触れた頬に澄香はそっと手を当てる。

(でも……わたしなんかを旦那様ほどのお方が好きになってくださるだなんて、ありえないわ……旦那様にはもっと美しくて教養のある女性の方がお似合いに違いないわ)

 そう思うと、胸がちくりと痛んだ。

(わたし……身の程も知らずに、旦那様に愛されたいと思っている……)

 澄香は胸に手を当てたまま、深く嘆息した。

 その時、まったくもぉ~、という少女の呆れたような声が耳に届いた。

「もう澄香ったら、またあの夜のことを考えてるんでしょ~」

 ハチ香は大きな姿見に自分を映し、まんざらでもなさそうにクルクル回転しては髪型や洋服をチェックしている。

「とりあえず、接吻とやらをしなければ寿命は減らないんだから、そんなに悩むことないじゃない?」
「いや、そこに悩んでいるわけじゃなくて……」
「悩むってことはさ、澄香はルイに接吻とやらをされたいの?」

 驚いて顔を上げると、ハチ香は小首を傾げていたずらな笑みを浮かべてこちらを見ている。

「もうっ! ハチ香ったらなんてことを……」

 澄香は慌てて火照(ほて)った頬に手の甲を当てる。

「『考えても(らち)のあかないことは考えない』、アタシが小さかった頃、母さんがいつも言ってた。それが幸せに生きるコツなんだって~」

 ハチ香はそう言ってクローゼットを開けると、ガサゴソと中を漁り始めた。

「ん……ドレスはどれもアタシには小さすぎるわね。でも帽子なら……ちょっと大きいけれど、まぁいけそうだわ!」
 
 少女は釣鐘(つりがね)型の白い帽子を手に取り、小さな頭に乗せた。

「やだ、カワイイ! 釣鐘型がアタシのスタイルの良さを強調してる! ねぇ、澄香。どう思う?」
「ええ、とってもよく似合っているわ。モノトーンのワンピースにもぴったりね」

 やっぱりぃ~? と言って、ハチ香は姿見の前でキャッキャとはしゃいでいる。
 一昨日の夜から考え込むことの多かった澄香だったが、無邪気なハチ香を見ているうちに、『今は考えても仕方がない。そのうち何かが見えてくるかもしれないわ』と思えるようになってきていた。



 時計の針が間もなく正午になるという頃、澄香はハチ香と共に黒塗りの車に乗り込んだ。

「堂元さん、昨日は香辛料をありがとうございました」

 澄香は運転席に座っている黒スーツに黒レンズ姿の男に挨拶をした。
 ライスカレーを作るには、独特の風味をもつ香辛料の存在が不可欠である。
 澄香は昨日のうちに、堂元に香辛料の調達をお願いしていたのであった。堂元に伝言してくれたのは、多江である。

「ライスカレー、とても美味しくできたようですね。今朝、社長を本社にお送りしたとき、『澄香は本当に料理が美味いんだ。おまえにも食わせてやりたかったよ。……いや、やっぱりそれは嫌だな……』と、嬉しそうに何度もおっしゃっていましたよ」
 
 堂元の瞳は相変わらず黒レンズに阻まれて見えなかったが、きゅっと上がった口角や明るい声色が『それが事実である』と告げていた。
 隣ではハチ香が、よかったね! というように肘で澄香の脇腹をつついている。
 澄香は幸せな気持ちで窓の外に目をやった。
 平日なので、前回鬼京百貨店を訪れたときよりも街を歩く人の姿はまばらだ。
 それでも時折、百貨店に向かうのだろうか、オシャレで華やかな女性の姿が目に入る。

「あっ!」

 澄香は突然小さく声をあげた。

(あのレースのリボン……)

 澄香の視線の先には、白いレースのリボンを髪に付け、笑顔で歩く女性の姿があった。

(旦那様がくださったあのリボン……明莉に奪われてしまった。旦那様、ごめんなさい)

 ほんの数分前までの幸せな気分はどこかへ消え去り、澄香は俯いてしまう。

「澄香、どうしたの?」

 ハチ香が顔を覗き込む。猫だからなのか距離がとても近く、鼻の先がくっつきそうである。

「――ん……なんでもないの。ハチ香、心配ばかりかけてごめんね」
「なに言ってるの! アタシは澄香の用心棒なのよ! 澄香こそ、アタシにどーんと甘えなさいよね」

 そう言って腕組みをする姿はとても頼もしい。

「ありがとう、ハチ香。昼餉、楽しみね」

 澄香が微笑みかけると、ハチ香はなんと舌なめずりをした。

(見た目は完全に人間だけれど、たまに猫が出てしまうのね……)

 やがて堂元は歩道沿いに車を寄せて停車した。

「わぁ~っ! ここが百貨店! オシャレなものがた~っくさんあるわ~」

 ハチ香はきょろきょろと首を左右に振りながら、大きな目を輝かせている。
 1階には、流行りの洒落た帽子や鞄、靴などが所狭しと陳列されている。

「澄香はいいなぁ~! ルイにおねだりすれば、なんだって買ってもらえるんだもん~」
「そんな……わたしなんかには、こんなに高価なものは似合わな……あ……」

 気づけばまた『わたしなんか』と口にしていた。

(本当に気をつけなくては。旦那様とお約束したのだもの)

 エレベーターで4階に到着したふたりは、レストランへと歩みを進めた。

「ルイが話していた洋食って、どんな料理なんだろう~?」

 楽しみで仕方がないのか、ハチ香はそう呟くと、ぴょんぴょんと跳ねるように前を進んでいく。
 レストランの入口に到着すると、短い髪に白いエプロン姿の女給が微笑みかけてきた。

「橘花澄香様ですね。お待ちしておりました。こちらにどうぞ」

 女給は長い脚をもてあますように、サッサと前を歩いていく。

「きっとルイが連絡を入れておいたのね。さすがだわ」

 ハチ香が隣でぼそりと呟き、澄香は頷いた。
 ふたりは皇都の町並みが見下ろせる窓際の席に案内された。

「こちらがメニューでございます。お決まりになりましたら、お呼びください」

 メニューを手渡す女給と一瞬目が合ったが、なんの感情も伝わってこないことに澄香は安堵する。

(あの人は、半妖なのだわ……。そうね、ここは鬼京百貨店ですもの。それにしても、あの黒目がちの瞳、どこかで見たことがあるような……)

 澄香の思考を破ったのは、お腹を空かせたハチ香の声だった。

「アタシ、ポークカツレツにする! 澄香は?」
「わたしは……クリームコロッケにしようかしら」

 そう答えると、澄香は手を小さく上げて先ほどの女給に合図をした。



「ふぅ~!美味しかったぁ~!」

 ハチ香はしばしの間、お腹をさすっていたかと思うと、やがてこっくりこっくり船を漕ぎ始めた。

「ハチ香、ここで寝てはダメよ。お家に帰りましょう」

 窓から差し込む秋の柔らかな日差しに、少女の姿をした猫はすっかり身体を丸めている。

「仕方がないわねぇ……」

 ほんの少しだけ、そっとしておいてあげよう。澄香がそう思った時だった。

「――あァら、お姉様ではなくてェ~?」

 粘り気のある高い声に、澄香の肩がビクリと反応する。