「――せ、接吻……ですか……」

 やがて、ぽつり呟く澄香の声がした。
 流唯は何と返したらよいのか分からず、いたたまれなくなり、すまん、と言ってドアの方へ歩き出すも、先程より少し張りのある澄香の声に歩みを止めた。

「その……『寿命を削ってしまう』とおっしゃっていましたが……お相手の命をその場で奪ってしまうということではないのですね――?」

 意外とも思える質問に流唯が、あぁ、そうだ、と答えると、これまた意外なことに「なんだ、食べられてしまうわけじゃないんじゃない……」とぶつぶつ呟く声が聞こえた。
 澄香はすぐ側で立ち尽くす流唯の顔をまっすぐに見ると、今度はこう尋ねた。

「では、これまでの花嫁候補の方たちは、旦那様がお顔も見てくださらないし、冷たい態度を取り続けてらっしゃるという理由で、泣いて逃げ帰った……ということでしょうか」
「……ああ、そういうことになるな」

 すると澄香は、顎に手を当て小首を傾げると、眉尻と口角を下げ呟く。

「……たったそれだけのことで逃げ帰ってしまうだなんて……」
 
 流唯は弾かれたように顔を上げると、尋ねた。

「おまえはあの頃つらくはなかったのか? 一度も逃げたいと思わなかったのか?」
「……つらくはなかったです。ただ、なんでだろう? とは思っていましたが……。それに、逃げたいと思ったことなんて一度もありません。むしろ、いつ追い出されるだろうとヒヤヒヤしていました」

 澄香はそう言って、肩をすくめて見せた。

(やはり、この子は特別だ……)

 流唯は澄香の隣に再び腰掛けたい気持ちに駆られるも、自分が今し方(いましがた)したばかりの告白の内容を考えグッと堪える。
 その後、澄香は顎に手を当てたままジッと考え込んでいる様子で、何と話しかけたらいいのか流唯には分からなかった。

「――本当に、驚かせてしまいすまん、澄香……」

 流唯はそう言うと、澄香に背を向けた。
 ドアを開ける瞬間、旦那様、と呼び止められ振り向くと、澄香はベッド脇に立ち微笑んでいた。

「話してくださって、ありがとうございました」

 流唯は何も言えずにひとつ頷くと、静かにドアを閉めた。



 ――翌々日の朝。
 二晩連続でほぼ一睡もできなかった流唯の目の下には、くっきりと黒い(くま)が刻まれている。

(昨日の朝は、どんな顔をして澄香と顔を合わせたらいいのか分からず、仕事のせいにして早々に家を出てしまった。でもさすがに二日連続はまずい。澄香がどうしているのかも気になるしな……)

 流唯は意を決して着流しに着替えると、ダイニングルームへと向かった。

(とはいえ、いったいどんな顔で挨拶をすればいいんだ……?)

 テーブルに肘をつき頭を抱えていた流唯だったが、廊下から漂ってくる香りに顔を上げた。
 そこへ藤色の着物をまとった澄香がやってきた。柔らかな微笑みを浮かべて流唯を見ている。

「旦那様、おはようございます」
「……あぁ、お、おはよう」

 流唯は気まずさに耐えきれず、すぐに目を逸らしてしまう。

「――大変お待たせいたしました」

 そこへ多江がやってきて、テーブルの上に皿を並べていく。
 
「これ……も、澄香が作ってくれたのか?!」

 流唯は驚いて澄香を見る。
 
「一昨日、わたしが旦那様の分をかなりいただいてしまいましたので――」

 澄香はそう言って、スプーンを手渡してくれた。

「今朝、早起きして作ってくれたのか……?」
「いえ、早起きというほどでは……。昔から朝は早かったので、わたし、朝は強いんです」

 控えめな握りこぶしを作って見せる澄香はとても可愛らしい。
 多少行儀が悪いかなと思いつつも誘惑には勝てず、流唯はライスカレーに顔を近付ける。ルーから湧き立つ香辛料の香りを思い切り吸い込んでから、スプーンで(すく)い口に運んだ。

「――美味いっ!」
「ありがとうございます」
「ほら、澄香も食べてみろ。すごく美味いぞ!」
「はい」

 ふたりは微笑み合いながら、澄香特製のライスカレーに舌鼓(したつづみ)を打った。

「澄香は、本当に料理が上手だな」
「お褒めいただき、ありがとうございます。でもそれは作る回数が多かったから慣れているだけで……上手なわけではないです」

 何かを思い出したのか、澄香は一瞬暗い目をした。

「あのレストランで一度食べただけで、こんなふうに料理を再現できるなんて、これは立派な才能だと思うぞ」
「そ、そうでしょうか……。一昨日いただいたお料理があまりにも美味しかったので……たまたまだと思います」

 ほんの少し頬を赤らめた澄香を見て、流唯はあることを思いつく。

「そうだ! 澄香は洋食が好きなようだし、たまにあのレストランに行って昼餉を食べてきてはどうだ? あそこは鬼京百貨店の中だから安心だしな」

 興奮気味に告げると、澄香はめっそうもない、とでも言うように首を大きく振る。

「そ、そんな! わたしにはもったいなさすぎるお話です!」
「ではこう考えたらどうだ? たまにこうして澄香の食べた料理を朝餉に出してほしい。そのための勉強をあの店にしに行くと。――どうだ?」

 澄香は胸の前で両手を組むと、目を輝かながら、はいっ! と小さく叫んだ。

「でも、大切な澄香をひとりで行かせるわけにはいかないな……」

 流唯は窓辺で優雅に食後の毛繕いをしているハチ香に視線を投げると、何か呪文のようなものを唱え始めた。続いて宙に文字のようなものを指で描き、それに息を吹きかけた。

 ――モクモクモク……

 一瞬、綿菓子のような雲状のものがあたり一面を包んだかと思うと――。

 ――しゅるんっ!

 次の瞬間、雲の切れ間から、すらっとしたひとりの少女が姿を現した。
 その子は耳がぎりぎり隠れるくらいの短い髪をしており、白と黒のストライプ模様のワンピースを身にまとっている。
 
 あまりに突然のことに、澄香は口に手を当てたまま呆然としている。

(やりすぎたか……)

 流唯が頭を掻いたそのとき。

「もうっ! いきなり何するのよぉ~! お化粧しているところだったのにぃ~!」

 少女は頬を膨らませて流唯を睨んだ。

「悪いな、ハチ香……ここはひとつ、澄香のために頼む」
「――ハ……ハチ香ですって?!」

 澄香は仰天して立ち上がるも、足に力が入らなかったようで、再び椅子に倒れ込む。

「い、いったい何がどうなっているの……?」
「澄香、驚かせてすまない。レストランへ行くときにはハチ香を『連れ』にするといい。さすがに猫の姿では店に入れないからな」
「ちょっとルイ、アタシはこれからずっとこの姿なの?」

 そう言って、ハチ香はピンク色の頬をぷぅっと膨らませる。

「安心しろ。レストランから帰ってきたら、元の猫の姿に戻るよう術をかけてある」
「それならまぁ……。それでルイ、あたしもその『洋食』とやらを澄香と一緒に食べてもいいのよね?」

 ハチ香は瞳を鋭く光らせて流唯に尋ねた。

「もちろんだ。好きなだけ食べるといい――と言いたいところだが、ハチ香。おまえは澄香の用心棒だ。食べすぎて第六感が鈍るなんていうことがあってはならない。分かるな? 常に警戒し、何か察知したらすぐにおれに式を飛ばせ」

 わかった! というように、ハチ香は小さな頭――人間に変身してもやはり頭が小さく、まるでファッションモデルのようだ――を一度下に向けたのだった。