(――こ、これは……!)

 澄香が通された和室には、一目見て最上級とわかる反物が所狭しと並べられていた。

「お嬢様、流唯様からのご伝言で『遠慮せず、好きなものを好きなだけ選んでよい』とのことでございます」

(そ、そんなことを言われても……)

 澄香は呆然と立ち尽くす。

 老舗呉服屋で生まれ育ったとはいえ、自分が(まと)うことを許されていたのは、もはや売り物にならなくなった着物だけだった。
 そのせいで、女学校時代には級友たちから陰口を叩かれ続けた。
 そんな澄香にとって、着物というものは仕方なく着るものであり、ただでさえみっともない自分を、さらにみっともなく見せるものであった。
 鬼京家にやってきてからは、ありがたいことに上質な美しい着物を着られるようになったが、澄香はそれらが自分に似合っているとは到底思えないでいた。
 
(どれも華やかすぎて、地味で貧相なわたしにはとても着られないわ……。このような着物を着こなせるのは……)

 その瞬間、オーホッホッ! という甲高い笑い声が澄香の耳に届いた気がした。

『無能の役立たずが高級反物を選ぶですってェ~?! お姉さまに選ばれてしまった反物が気の毒ですわァ~。そんな不器量で痩せぎすの女に着られてしまったら、どんな着物もボロ切れ同然よッ!』

 眼の前に広がる反物の海の真ん中で、腰に手を当て、こちらを指差しながら罵る明莉の姿がゆらゆら揺れていた。

(あか、り……そうよね。わたしなんかに選ばれたら、その反物が可哀想よね。わたしのようなみっともない女に、上等な着物を着る資格なんてないんだわ……)

 澄香は、うっ! と口を押さえると、その場にしゃがみこむ。
 額と背中を嫌な汗が流れている。

「――まぁ! 大変だわ! お嬢様、どうなさいまし――」

 駆け寄る白髪の女性の姿が目の端に映ったと思ったのを最後に、澄香の意識は遠のいた。



「――澄香! 澄香! 大丈夫か?!」

 聞き覚えのある低い声に目を開けると、目の淵に水をいっぱいに溜めたアーモンド形の瞳がこちらを見ながら不安げにゆらゆらと揺れていた。

「――だ、旦那様!」

 澄香は慌てて飛び起きるも、頭部に走ったキーンという鋭い痛みに、痛っ! と顔をしかめる。

「ほらほら、ダメだぞ、まだ休んでいなさい」

 流唯はそう言うと、澄香の背中を支え、横になるのを促した。

(ここは、どこ……?)

 澄香はあたりを見回す。

「ここは呉服店の一室だ。さきほどの女将が用意してくれた」

 澄香の疑問を感じ取ったかのように、流唯が答える。

(あの方が、ここの女将さんなのね……)

 先ほど会ったばかりの白髪の女性を思い浮かべたと同時に、澄香は自分が大きな和室一面に並べられた豪華な反物を前にして倒れたことを思い出した。

「あの……、旦那様。ほ、本当に申し訳ございません!」
 
 澄香は横になったまま、頭を下げた。

「なぜおまえが謝るのだ? 謝るのは、おまえにしんどい思いをさせてしまった俺の方だ」
「いいえ! せっかく旦那様がわたしのためにご用意してくださった機会でしたのに、わたしが台無しにしてしまいました……」
「台無しになんてしていない。――ほらほら、そんなふうに涙を流したら、頭痛が治らないぞ。今はゆっくり休むといい」
 
 流唯はそう言うと、澄香の頭をそっと何度も撫でた。

(――旦那様の大きな手……なんてお優しい……)

 目の淵に大きな涙の雫を溜めたまま、澄香はやがて静かに寝息を立て始めたのだった。



 どれくらいの時間、眠っていたのだろうか。
 澄香が目を覚まし、ふとベッド脇を見ると、そこには真剣な顔で書類に目を落としている流唯の姿があった。

「――旦那様……」

 声になっているのか自分でも分からないほど小さな声で呟くと、流唯はパッと顔を上げ、枕元に近づいた。

「澄香! 具合はどうだ? 水、飲むか?」
 
 澄香は首肯し、差し出されたグラスを受け取る。
 水を飲み干し身体を少し動かすと、頭痛がすっかり消えているのを感じた。

「はい、もうすっかり良くなりました」
「そうか……それならよかった。おまえに無理をさせてしまったこと、本当にすまなかったと思っている」
「そんな……旦那様のせいではございません」
「……澄香、ちょっとこっちに来られるか? ゆっくりで構わない」
「はい」

 澄香はベッドから降り、ゆっくりとした歩みで流唯のあとを付いていく。
 流唯は先ほどよりも小さめの和室に入っていくと、「女将、では頼む」と声を張った。
 
「はい、ただいま参ります」
 
 女将は二人の女性を伴って姿を現した。三人が手にしている数々の反物、それらはなんと、すべて水色だった――。

「旦那様、これはいったい……?」

 なにがどうなっているのか分からず、澄香は流唯に尋ねる。

「澄香、俺はたくさんの選択肢を用意することが、おまえの喜びに繋がると思っていた。だが違っていた。そこで、俺が思う澄香に似合うもの、そしておそらくおまえが負担を感じずに袖を通すことができるものを選んでみた」

 流唯はそう言って、目を細めた。

「今着ているそのドレス、本当によく似合っている……。だから女将に水色の反物を持ってきてくれと頼んだんだ」
「……わ、わたし、いつもこのドレスばかり着てしまって……あんなにたくさん上等なドレスを用意してくださったのに、本当にごめんなさい!」

 澄香はなんだか居たたまれなくなり、頭を下げた。
 すると流唯は澄香の肩を両手で優しく包むと、そっと言葉を継いだ。

「なにを謝ることがある……。そのドレスをそんなにも気に入ってくれて、俺は嬉しいんだ。それに水色は清楚で優しい澄香にとてもよく似合う。俺の前で、その色をたくさん着てほしい」
「旦那様……」

 澄香は顔を上げ、目の淵に溜めた雫を指先で拭った。

「わかりました。拝見させていただきます」

 そう言うと、反物ひとつひとつを手に取り丁寧に見始めたのだった。



「――それでは、こちら三枚のお仕立てで、お間違いないでしょうか」

 女将は満面の笑みで流唯に尋ねる。

「ああ。それらに合う帯と小物も頼む。予算は気にしなくていい」
「かしこまりました」

 二人のやり取りを後ろで見ていた澄香は、流唯にそっと話しかける。

「――あの、旦那様……」
「どうした、澄香。疲れたか? じき終わるから……もう少し待てるか?」
「いえ、大丈夫です。そうではなくて……あんなに上等な反物をたくさん……わたしなんかのために、なんだか申し訳ないです……」

 散財させてしまった、という罪悪感で、澄香は下を向いてしまう。

「澄香、俺を見ろ」
「……はい」

 澄香はやっとの思いで顔を上げる。黒曜石を思わせる美しいアーモンド形の瞳が澄香を捉える。

「『わたしなんか』ではない。澄香だから、俺はいくらでも買ってやりたいんだ。いいか、もう『わたしなんか』とは言うな」
「……はい、わかりました。旦那様、本当にありがとうございます」

 ふたりは手を取り合い、店を後にした。

「澄香、疲れたろう。それにそろそろ腹が減ったのではないか」

 流唯は澄香の顔を覗き込む。

「――はい、実は少し……」
「では約束どおり、美味い洋食を食べに行こう」
「はい」

『洋食』という響きに、澄香はお腹のあたりが元気に動き出すのを感じていた。