振り返ると、黒いスーツ――皺ひとつない艶のある生地は、ひと目見て上等なものだとわかる――を身にまとった流唯が、優しい笑みを浮かべて澄香を見ていた。

「――旦那様!」

 澄香もつられて笑顔になる。

(旦那様、なんて素敵なのかしら……。お屋敷では着流しで過ごされていることが多いから、なんだかドキドキしてしまうわ)

 はにかんで下を向いた澄香だったが――。

(それなのにわたしときたら、いつもと同じドレスを着てきてしまったわ。旦那様、がっかりされていないかしら……)

 急に不安になり、流唯にちらりと視線を投げる。
 流唯は堂元となにやら業務連絡らしき言葉を交わしているようだったが、澄香の視線に気付くとすぐに話を切り上げ、どんな氷河でも溶かしてしまうであろう甘い微笑みを浮かべて澄香に近づいた。

「待たせてしまったね。さぁ、中に入ろう」

 流唯はそう言って、澄香の背に優しく片手を添えた。そして――。

「あのリボン、付けてくれたんだね……やはり澄香によく似合っている」

 耳元で、そう囁いたのだった。



「……まぁ!」
 
 百貨店に一歩足を踏み入れた瞬間、澄香はまるで魔法の国にやってきたかのような感覚に襲われた。

(なんて良い香り……! 天井が高くて、とっても明るいわ。そして目に入るもの全てが、なんてきらびやかで美しいの!)

 頬をバラ色に染め、興味津々の様子であたりを見回す澄香。

(わたしが住んでいた場所とここは、本当に同じ皇都なのかしら……まるで別世界だわ)

 通り過ぎる女性たちもみんな華やかな装いをしていて、一様に笑顔である。

「本当に、夢のように素敵なところですね……」

 そう言って、澄香は流唯に微笑みかけた。

「そうか? おまえに気に入ってもらえたならよかった」

 流唯も満足そうに目尻を下げている。

(――それにしても……旦那様って本当にすごい方なのね……。旦那様が通ると、お店の人たちが皆一様に頭を下げているわ。それなのに、隣にいるのがわたしだなんて、旦那様のご評判が落ちないとよいのだけれど……)

 澄香は『ここに来られて嬉しい』という気持ちと、居たたまれない気持ちのあいだで揺れていた。

「――まずはどちらに行かれるのですか?」
 
 周囲からの視線を気にせずに済むよう、澄香は努めて明るい声で流唯に話しかける。
 
「まず、澄香には少し仕事をしてもらおうと思う」

 返ってきたのは意外な答えだった。

「お、お仕事ですか?」

 きょとんと首を傾げる澄香を見て、流唯は小さく笑った。

 少し歩くと、中央になにやら巨大な黒っぽい階段のようなものが見えてきた。
 不思議なことに、人々は歩いている様子がないにもかかわらず、自動的に斜め上の方向に運ばれていっている。

「こ、これはっ……?!」

 生まれて初めて見る不思議な装置に、澄香は驚きを隠せない。

「これは『エスカレーター』というんだよ。手すりに掴まってその場に立っていれば、自動的に上の階に連れて行ってくれる」
「……エ、エスカレーター……ですか」
「さぁ、一緒に乗ってみよう」

 流唯は澄香の背に手を添えたまま優しく促すも、澄香の足はすくんだままだ。

(……足を乗せるタイミングがわからないわ)
 
 ふと振り返ると、何をやっているんだ? とイライラした様子でこちらを見ている客たちの姿が目に入った。
 焦り始める澄香だったが、どうしても足が前に出ない。
 流唯はそんな澄香を励ますように、背に添えた手をポンポンと動かす。

「では『いち、にいの、さん』と数えるから、『さん』で足を前に出そう。俺がついているから心配するな」

 澄香は必死の面持ちで首肯する。

「――いち、にいの、さん!」

 『さん』の声に焦って右足を前に出した澄香は、バランスを崩し、後ろに大きくのけ反った。
 すかさず流唯が背後に回り、そんな彼女を胸で受け止める。

「――おっと! 澄香、大丈夫か?」
「……」

 実のところ、自分が仰向けに倒れそうになったことよりも、いま背中に感じているたくましい胸の方が澄香にとっては衝撃であった。
 しかし、流唯は少女の沈黙を別の意味で受け取った。

「怖い思いをさせてすまなかった……俺の配慮が足りなかったな。エスカレーターはやめて、エレベーターにしよう」

 流唯はそう言うと、澄香の手を取り歩き出す。

「……!!」

 異性と――それどころか親や同性とも――手を繋いだことのない澄香は、体中の全神経が流唯に握られている左手に集まっているのを感じていた。
 苦しいほどに早鐘を打つ心臓を右手で押さえ、澄香は真っ赤な顔をしながら流唯についていく。
 半歩、自分の先を行く広い肩とたくましい腕、そしてさらさらと流れる美しい黒髪から澄香は目を離せない。

(旦那様……あぁ、このお方に付いていきたい……)

 三年前に出会った時からずっと、澄香は流唯に対して憧れの気持ちを抱いてきた。『自分なんかには到底手の届かない神々しい存在』として流唯を見ていたと言ってもいいかもしれない。
 だが澄香は今、自分の中に『欲』のようなものが芽生え始めているのを感じていた。



 エレベーターで四階まで上がると、流唯は澄香の手を握ったまま呉服店へと入っていった。

「澄香には、ここで仕事をしてもらおうと思っている」

 流唯はそう言うと片方の目をバチンと閉じ、白い歯を見せた。

(――だ、旦那様ったら……)

 先ほどのエスカーレーターでのことといい、手を握られたことといい、澄香の心臓は休む暇がまったくない。

「これはこれは流唯様、お待ち申し上げておりました」

 白髪の品の良い女性が、にこやかに出迎えてくれた。

「あぁ、今日はよろしく頼む」
「かしこまりました。――ささ、お嬢様、こちらへどうぞ」

 女性は澄香に微笑みかけると、自分についてくるよう促した。
 澄香は訳もわからず、流唯を見上げる。だが――。

「澄香、おまえの仕事ぶり、期待しているぞ」
 
 これまたよく分からない言葉が返ってきた。
 事態が掴めぬまま、澄香はおずおずと女性についていく。
 
 すると突然、色鮮やかな反物(たんもの)の海が眼の前に広がった。