澄香が鬼京家に住み始めてから二週間が経過した。
日中すべきことといえば、部屋の掃除にハチ香と自分の昼餉の準備だけ。
(このまま鬼京家のお世話になりっぱなしでよいのかしら……)
澄香は日増しにそう悩むようになっていた。
ある朝、澄香は思い切って流唯に尋ねた。
「あの……朝餉の準備をお手伝いさせていただいてもよろしいでしょうか……」
流唯は最初、そんな気を使わずともよい、と答えた。
だが澄香が食い下がると、その真摯な気持ちが伝わったのか、優しくこう告げたのだった。
「おまえがそうしたいのなら、話はこちらで通しておく。だが、決して無理はするな」
朝餉の準備を手伝いたいと申し出たのは確かに澄香だったが、正直なところ台所という空間には辛い思い出しかなかった。
橘花家にいたころは、すべての食事の用意を押し付けられていた。
氷点下まで気温の下がった冬の朝、霜焼けだらけの手に白い息を吹きかけながら、冷たい水で野菜を洗っていた自分を思い出すと、澄香は思わずブルッと身震いした。
それに一時期、共に働いていたタキという使用人との苦い記憶もある。
しかし、鬼京家の台所に一歩足を踏み入れた瞬間、澄香は思わず、わぁ!、と声を上げた。
白色を基調とした台所はどこもかしこもピカピカで清潔感に溢れており、天井には明るい朝日が差し込む大きな窓が取り付けられている。
暗くて寒く、鼠の出る橘花家の調理場とは、まったくもって大違いであった。
「あの、おはようございます……」
誰もいない空間に向かい、澄香にしては大きめの声で挨拶をしてみた。
すると――。
「あらま! あなた様が若旦那様の婚約者の澄香様ですかい?」
太めの身体を左右にゆさゆさと揺すりながら、ひとりの中年女性が奥のドアから野菜籠を抱えて入ってきた。
「これはなんとまぁ、可愛らしいお嬢様ですこと! おっといけない、あたいは千代っていいます。ご覧のとおり、あたいもだいぶ年でねぇ……膝にもかなりガタがきてるもんで、お手伝いしていただけるだなんて願ったりかなったりですよぉ~」
そう言うと、千代は大きな前歯を突き出すようにして、ニカーッと笑った。
「あの……おひとりですか?」
澄香はキョロキョロしながら尋ねた。
「いえ、他に三名ほど調理担当の者がおりますよ~。なんせここでは若旦那様のお食事のみならず、大旦那様、大旦那様の姉君ご一家と妹君ご一家の分をご準備しておりますからねぇ~」
「……そ、そんなに大勢の方が、このお屋敷にお住まいなのですか?」
どうりでやたらと広いはずだ、と納得すると同時に「『大旦那様』とは旦那様のお父様のことよね」とチラッと考える。
「そうなんですよぉ。でもね、皆さま違うお部屋でお食事をなさいますので、どうぞご安心を。お嬢様は主に若旦那様の朝餉のお支度をお手伝いくださったら十分ですからね~」
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いいたします」
澄香は深々と一礼すると、千代の指示を仰ぎながら、さっそく朝餉の準備に取りかかった。
朝餉の時刻になると澄香はいったん部屋へ戻り、長春色に白い小花の模様が入った着物に着替えた。
鬼京家では、これからやってくる澄香のためにと華やかなドレスが事前にたくさん用意されていた。
だが、『澄香は呉服店の娘なので着物の方が着慣れているかもしれない』という流唯の心遣いにより、それはそれは上等な美しい着物の数々が、つい数日前、部屋に届けられたのだった――。
生家の橘花家は老舗呉服店であったにもかかわらず、澄香に与えられていたのは時代遅れの着物や汚れが付いて売り物にならなくなったもののみ。
流行の西洋柄の華麗な着物に身を包み、艶やかに微笑んでいた明莉の前を、澄香は常に身体を折り曲げるようにして俯きながら歩いていたのだった。
そんな過去の自分を頭から追い払うように、澄香は頭をぶるぶると横に振ると、届いた着物を一着ずつ手に取り眺めた。
と、ある着物と着物のあいだに、手書きのメッセージのようなものが挟まれているのが目に入った。
封筒の表面には『澄香へ』とあり、裏返すと『流唯』と記されている。
ドキン、と跳ねる胸を押さえながら手紙を開くと、少し右肩上がりのおおらかな文字が目に飛び込んできた。
――『澄香に似合いそうなものを見繕ってみたのだが、どうだろうか。着物でもドレスでも、澄香がその日着たいと思ったものを着るといい』――
短くも思いやりに満ちたその言葉に、澄香の目から次々と雫がこぼれ落ちる。
「旦那様――!」
澄香は流唯からの手紙をぎゅっと抱きしめると、ベッドに顔を押し付けて涙を流し続けたのだった――。
朝餉の時刻。長春色の着物を身にまとった澄香が隣に座ると、流唯は目尻を下げ、よく似合っているな、と呟いた。
その呟きを左耳でしっかりと捉えた澄香は、頬が熱を帯びるのを感じていた。
部屋の隅では、猫用食事皿の前で、ハチ香がそんなふたりを交互に眺めている。
テーブルには、いつものように野菜の煮物やお吸い物、卵焼き、焼き魚といった定番の和食メニューが並んでいる。
卵焼きを一切れ口にした流唯は、あれっ? というように動きを止めた。
「旦那様、どうかなさいましたか」
澄香は内心ドキドキしながら尋ねる。
「――いや、この卵焼き、いつもと味が違うような……今朝のは出汁の味がとても効いている。美味いな……」
流唯はそう言うと、卵焼きに再び箸を伸ばした。
その瞬間、紙飛行機のようなものがダイニングルームに飛び込んできて、夢中になって卵焼きを頬張る流唯の眼の前で停止した。
(ちゅ、宙に浮いてる……)
目を見張る澄香の前で、流唯は、なんだ? と言いながら紙飛行機を解体し始めた。
あれは何なのかしら、と訝しみながらも澄香は箸を動かす。
ややあって――。
「――澄香、この卵焼きはお前がひとりでこしらえたそうだな」
流唯の明るい声がした。
はい、と頷く澄香。
すると流唯は、その長い右腕をすぅーっとまっすぐに澄香の方に伸ばした。
そして、澄香はえらいなぁ~! と言いながら、大きな手の平で少女の頭をさらりさらりと撫で始めた。
「――!!」
予想だにしていなかった出来事に、澄香の思考は停止状態。
しばらくして我に返ったらしい流唯は、すまんっ……と小さく呟き腕を引っ込めた。
(い、今のは、なに……?)
澄香の心臓は早鐘を打ち始める。
炎のように熱を帯びた頬は、両手を当てたくらいでは冷えないようで、澄香は両手をパタパタと扇子のように上下に動かし始めた。
ちらっと左を見ると、流唯も耳を真っ赤にして、ひたすら白米を口に運んでいる。
日中すべきことといえば、部屋の掃除にハチ香と自分の昼餉の準備だけ。
(このまま鬼京家のお世話になりっぱなしでよいのかしら……)
澄香は日増しにそう悩むようになっていた。
ある朝、澄香は思い切って流唯に尋ねた。
「あの……朝餉の準備をお手伝いさせていただいてもよろしいでしょうか……」
流唯は最初、そんな気を使わずともよい、と答えた。
だが澄香が食い下がると、その真摯な気持ちが伝わったのか、優しくこう告げたのだった。
「おまえがそうしたいのなら、話はこちらで通しておく。だが、決して無理はするな」
朝餉の準備を手伝いたいと申し出たのは確かに澄香だったが、正直なところ台所という空間には辛い思い出しかなかった。
橘花家にいたころは、すべての食事の用意を押し付けられていた。
氷点下まで気温の下がった冬の朝、霜焼けだらけの手に白い息を吹きかけながら、冷たい水で野菜を洗っていた自分を思い出すと、澄香は思わずブルッと身震いした。
それに一時期、共に働いていたタキという使用人との苦い記憶もある。
しかし、鬼京家の台所に一歩足を踏み入れた瞬間、澄香は思わず、わぁ!、と声を上げた。
白色を基調とした台所はどこもかしこもピカピカで清潔感に溢れており、天井には明るい朝日が差し込む大きな窓が取り付けられている。
暗くて寒く、鼠の出る橘花家の調理場とは、まったくもって大違いであった。
「あの、おはようございます……」
誰もいない空間に向かい、澄香にしては大きめの声で挨拶をしてみた。
すると――。
「あらま! あなた様が若旦那様の婚約者の澄香様ですかい?」
太めの身体を左右にゆさゆさと揺すりながら、ひとりの中年女性が奥のドアから野菜籠を抱えて入ってきた。
「これはなんとまぁ、可愛らしいお嬢様ですこと! おっといけない、あたいは千代っていいます。ご覧のとおり、あたいもだいぶ年でねぇ……膝にもかなりガタがきてるもんで、お手伝いしていただけるだなんて願ったりかなったりですよぉ~」
そう言うと、千代は大きな前歯を突き出すようにして、ニカーッと笑った。
「あの……おひとりですか?」
澄香はキョロキョロしながら尋ねた。
「いえ、他に三名ほど調理担当の者がおりますよ~。なんせここでは若旦那様のお食事のみならず、大旦那様、大旦那様の姉君ご一家と妹君ご一家の分をご準備しておりますからねぇ~」
「……そ、そんなに大勢の方が、このお屋敷にお住まいなのですか?」
どうりでやたらと広いはずだ、と納得すると同時に「『大旦那様』とは旦那様のお父様のことよね」とチラッと考える。
「そうなんですよぉ。でもね、皆さま違うお部屋でお食事をなさいますので、どうぞご安心を。お嬢様は主に若旦那様の朝餉のお支度をお手伝いくださったら十分ですからね~」
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いいたします」
澄香は深々と一礼すると、千代の指示を仰ぎながら、さっそく朝餉の準備に取りかかった。
朝餉の時刻になると澄香はいったん部屋へ戻り、長春色に白い小花の模様が入った着物に着替えた。
鬼京家では、これからやってくる澄香のためにと華やかなドレスが事前にたくさん用意されていた。
だが、『澄香は呉服店の娘なので着物の方が着慣れているかもしれない』という流唯の心遣いにより、それはそれは上等な美しい着物の数々が、つい数日前、部屋に届けられたのだった――。
生家の橘花家は老舗呉服店であったにもかかわらず、澄香に与えられていたのは時代遅れの着物や汚れが付いて売り物にならなくなったもののみ。
流行の西洋柄の華麗な着物に身を包み、艶やかに微笑んでいた明莉の前を、澄香は常に身体を折り曲げるようにして俯きながら歩いていたのだった。
そんな過去の自分を頭から追い払うように、澄香は頭をぶるぶると横に振ると、届いた着物を一着ずつ手に取り眺めた。
と、ある着物と着物のあいだに、手書きのメッセージのようなものが挟まれているのが目に入った。
封筒の表面には『澄香へ』とあり、裏返すと『流唯』と記されている。
ドキン、と跳ねる胸を押さえながら手紙を開くと、少し右肩上がりのおおらかな文字が目に飛び込んできた。
――『澄香に似合いそうなものを見繕ってみたのだが、どうだろうか。着物でもドレスでも、澄香がその日着たいと思ったものを着るといい』――
短くも思いやりに満ちたその言葉に、澄香の目から次々と雫がこぼれ落ちる。
「旦那様――!」
澄香は流唯からの手紙をぎゅっと抱きしめると、ベッドに顔を押し付けて涙を流し続けたのだった――。
朝餉の時刻。長春色の着物を身にまとった澄香が隣に座ると、流唯は目尻を下げ、よく似合っているな、と呟いた。
その呟きを左耳でしっかりと捉えた澄香は、頬が熱を帯びるのを感じていた。
部屋の隅では、猫用食事皿の前で、ハチ香がそんなふたりを交互に眺めている。
テーブルには、いつものように野菜の煮物やお吸い物、卵焼き、焼き魚といった定番の和食メニューが並んでいる。
卵焼きを一切れ口にした流唯は、あれっ? というように動きを止めた。
「旦那様、どうかなさいましたか」
澄香は内心ドキドキしながら尋ねる。
「――いや、この卵焼き、いつもと味が違うような……今朝のは出汁の味がとても効いている。美味いな……」
流唯はそう言うと、卵焼きに再び箸を伸ばした。
その瞬間、紙飛行機のようなものがダイニングルームに飛び込んできて、夢中になって卵焼きを頬張る流唯の眼の前で停止した。
(ちゅ、宙に浮いてる……)
目を見張る澄香の前で、流唯は、なんだ? と言いながら紙飛行機を解体し始めた。
あれは何なのかしら、と訝しみながらも澄香は箸を動かす。
ややあって――。
「――澄香、この卵焼きはお前がひとりでこしらえたそうだな」
流唯の明るい声がした。
はい、と頷く澄香。
すると流唯は、その長い右腕をすぅーっとまっすぐに澄香の方に伸ばした。
そして、澄香はえらいなぁ~! と言いながら、大きな手の平で少女の頭をさらりさらりと撫で始めた。
「――!!」
予想だにしていなかった出来事に、澄香の思考は停止状態。
しばらくして我に返ったらしい流唯は、すまんっ……と小さく呟き腕を引っ込めた。
(い、今のは、なに……?)
澄香の心臓は早鐘を打ち始める。
炎のように熱を帯びた頬は、両手を当てたくらいでは冷えないようで、澄香は両手をパタパタと扇子のように上下に動かし始めた。
ちらっと左を見ると、流唯も耳を真っ赤にして、ひたすら白米を口に運んでいる。