カッカッカッカッと白墨が黒板を滑る。横に広く縦にも長い数学教師は、板書するのがとても速い。
 我が一年A組の担任でもある彼の計らいで、わたしは一番後ろから一番前の席へと移動していた。黒板の全てを見渡せる席だが、それでも書き写すだけで精一杯だ。教師が説明している時か、問題を誰かが解いている時だけ、ほんの少し息をつくことができる。
 生憎と今日は新しい単元に進んだばかりで、板書の量がいつもより多い。わたしが最後の説明文に辿り着いたのと、授業終了のチャイムは同時だった。担任が容赦なく板書を消してしまい、わたしはがくりと机に突っ伏した。
 おそるおそる振り返り、後ろの席のイさんに声をかける。

「イさん。数学の板書、書き写し終わった?」
「ぜーんぜん。途中で諦めちゃった。ウちゃんは?」
「あたしもだめ。あとで誰かにノート借りるわ」

 イさんとウさんは同じ中学で仲が良い。すぐさま会話を切り上げると、わたしと席が変わったアさんの元へ寄っていった。エさんとオさんに話しかけるには微妙な距離だ。隣席の男子はとっくに席を立っている。
 わたしは内心大きな溜息をつき、クラス内を漫然と見渡す。同じ中学出身者で固まっているグループもあれば、前後の席で仲良く話している二人組もいる。
 クラス授業以外は氏名順のため、自分も含めて渡辺が四人揃ったグループならば、リーダータイプの女子のおかげで今のところ楽しく過ごせているのだが、いかんせんクラスでは物理的な距離が遠い。渡辺三人組が笑って会話している光景が見え、そっと視線を机に戻した。
 大好きな毒舌ウサちゃんの話ができる相手は、まだいない。

(大丈夫、大丈夫、部活が始まればきっと大丈夫!)

 わたしはスクールバッグを開け、新入生案内の冊子を取り出す。角折れしたページを開き、部活動一覧を指でなぞる。
 文化系部活動の中に演劇部が二つ記載されている。どちらがどう違うのだろう。優しい先輩達だったらいいな。中学生の時に見た舞台みたいな部活がやりたいと妄想し始めた途端、胸の中のもやもやは少しだけ晴れた。

 ***

 授業開始から一週間()ち、月曜日のクラスは部活の話題でもちきりだった。

「部活決めたー? 『仮入部期間は見学し放題』って先生が言ってたから、迷っちゃう」
「吹奏楽部にしようかな。中学の時もやってたし。先輩がこわくなければいいなぁ」
「ねぇねぇ。渡辺さんは?」

 話題を振られ、わたしは待ってました!とばかりに鼻息を荒くする。
 内心のわたしは、両手を腰に当て、ババーンと登場するイメージ。
 現実(リアル)のわたしは新入生案内の角折れページを開き、クラスメイトに見せる。

「わたしは演劇部!」
「中学の時もやってたの?」
「中学は美術部だったよ。みんなでマンガやイラストを描いたりしてたんだ」
「へー。じゃあ、なんで演劇部?」

(その質問も待ってました!)

 机の下で、わたしはガッツポーズを決める。
 わたしは中学時代に観劇した演劇の素晴らしさを、それはもう事細かに語る。次第に場がしらけてきたことにも気づかず、背は小さくても声だけは大きいわたしにクラス中が注目していた。

「す……すごいね、渡辺さんは。わたし、そこまで深く考えてなかったから……ね?」
「あ、うん。中学から慣れてる部活ならいいかなーぐらいにしか思ってなかった。ね?」
「そ、そうだねー。そんなにやる気があるなら、すぐに主役になっちゃうかも! が、がんばって!」

 不自然なアイコンタクトを繰り返し、クラスメイト達がそそくさと席を立つ。
 耳に戻ってきた騒然さに、わたしは一人で浮かれはしゃいでしまったことに気づき、恥ずかしさで赤面した。おとなしく最後まで話を聞いてくれただけでもありがたいぐらいだ。内心で謝罪と感謝をしつつ、わたしは新入生案内のパンフレットをスクールバッグにしまった。


 第一体育館で行われた部活動紹介はとても楽しかった。運動部の体を張ったパフォーマンスには目を奪われたし、薙刀(なぎなた)という武道があることも初めて知った。
 ただ一つ疑問に思ったのは、薙刀部ではなく薙刀同好会だということだった。
 部活動と同好会活動。何が違うのだろう。
 その疑問が解けぬまま、部活動紹介は文化系部活へ移った。そして肝心の演劇部代表の二年生女子がそれぞれ名乗った際、一つが演劇部と名乗り、もう一つが演劇同好会と名乗ったのだ。

(え? え? 演劇部? 演劇同好会?)

 ここでも部活動と同好会だ。わたしはうーんと大きく首をひねり、新入生案内に記載された演劇部【満開(まんかい)】の文字に大きな赤丸をつける。

(演劇部! うん、こっちに決めた!)

 わたしは勢いのまま、部活名とクラス名、氏名を仮入部届に書き、折りたたんで胸ポケットにしまった。


 第一体育館から一年生が出ていく光景は、ザブーンと大きな音がしそうなほどの大波に似ていた。うねる波に飲み込まれないよう、わたしは必死に両足で歩く。
 第一体育館の通路は、途中で中庭の庭園と繋がる。お昼時には人気の場所だが、今は通路から大分離れた場所で二人の男子生徒がキャッチボールをしているぐらいだ。
 わたしはつい白球の動きを目で追う。投げる。返す。また投げる。夕焼け空にゆるやかなカーブを描いていた白球が、不意にグローブを弾いてこちら側へと転がってきた。わたしが足元に転がってきたボールを拾うのと「すみませーん」の声はほぼ同時だった。
 ゆっくり近づいてきたのは、白いランニングシューズに黒いズボン。
 白いワイシャツに青いネクタイ、白いパーカー。
 くりくりした子猫のような瞳。
 ぴょこんと飛び出した、やわらかそうなクセっ毛。
 二年生の先輩男子が膝を曲げ、わたしとまっすぐ視線をあわせる。

「ボール拾ってくれてありがとう」

 淡いオレンジ色の夕陽に照らされた笑顔があまりにも甘くて、わたしの胸は思わず大きな音を立てた。