「本当に、美雨の心臓は僕のものなの……?」
美雨の身体で、僕は左胸を押し潰す勢いで押さえつける。
確かに力強く感じる脈動は、とても病気の少女のものとは思えない。それに、僕自身以前定期検診に行った。そこで先生から心臓移植の事実を聞かされている。
美雨が心臓移植をしたことは歴とした事実だ。
そのドナーが、まさか僕だなんて——……。
「う……」
びっくりするぐらい気が動転していて、口から嗚咽が漏れた。
美雨はどんな気持ちでこのメッセージを綴ったのだろう。五ヶ月間も悩んで、ようやく打ち明けてくれたのだ。きっと美雨だって辛いはずだ。僕は美雨の心中を思うと、自分の命に関わることなのに、切なさが込み上げた。
そうだ。僕は。
僕は美雨のことが、好きだ。
『すごく、びっくりしたよね。自分の一週間後の未来が、こんなことになるなんて想像するだけで辛いよね……。本当にごめんなさい。
だけど私は、桜晴の命を救いたい。
自分の命に代えてもいいって思える人に出会えた。
私は桜晴のことが……どうしようもなく好きなんだ』
好きという二文字に、こんなにもやるせない気持ちにさせられたのは初めてだった。
中学の頃、初めて恋した女の子にはあっけなく振られてしまって。それから再び恋をした相手が美雨だった。
美雨とは時空がずれていると知って。それでもいつか、もしかしたら会えるんじゃないかと希望を抱いていた。
「もう会えないのか……」
襲いくる虚脱感は、自分の命がもうすぐ失われることに対するものじゃない。
この恋が絶対に叶うことがないのだと、思い知らされてしまったからだ。
美雨のメッセージはそこで途切れていた。僕は、静かにノートを閉じる。いまだ暴れている心臓を押さえて朝食を食べるために一階へ向かった。
——私は、桜晴の命を救いたい。
ノートに綴られた一文が、頭から離れない。
美雨は何を考えているのだろうか……。
朝食を食べている間、学校に行き授業を受けている間、僕は美雨のことを四六時中考えていた。
美雨は、たぶんこの運命を受け入れようとしていない。
ノートから滲み出てくる彼女の決意が、いやでも胸に突き刺さる。彼女は、僕の命を自分の命に代えてもいいと言っていた。でもそんなの、どうやって……。
「……ああ、そうか」
放課後、鞄に荷物を詰めていた僕はようやくあることを思いつく。
美雨がこれから何をしようとしているのか。
もし本当に彼女が自分の命と引き換えに僕の命を救おうとしているなら、考えられること。
僕が死ななければ、美雨は死んでしまうかもしれないのに。
僕が死なない未来に、きっと美雨はいないのに。
美雨は運命を、覆そうとしている——。
「美雨、どうしたの。早く帰ろうよ」
瑛奈が教室の外から僕のことを呼んだ。彼女とは二年生でクラスが離れてしまったけれど、こうして放課後は一緒に帰宅している。と言っても、バスに乗って、彼女は途中で降りてしまうのだけれど。和湖は吹奏楽部の練習があるので、帰宅は別だった。
「うん、ごめん」
鞄を持って、瑛奈の元へと教室を後にする。
僕たちは並んで校門まで歩いた。バス停はすぐそこだ。いつものように帰宅のバスを待って乗ろうと思ったのだけれど、瑛奈が僕の手を引いて引き止める。
「あのさ、今からファミレス寄らない?」
「え?」
瑛奈の言うファミレスとは、学校から徒歩五分ほどの場所にある地元のチェーン店だ。僕も何度か瑛奈たちと行ったことがある。
「いいけど」
特に予定のない僕は瑛奈の提案に頷いた。わざわざファミレスに誘うなんて、何か話したいことがあるんだろう。
お店に着くと、僕たちはドリンクバーを頼んだ。瑛奈はいちごチョコクレープも頼んでいて、頬にチョコをつけながら満足そうにクレープを平らげた。
「あのね、美雨。実はこの前、浅田に告白したんだ」
「浅田……」
僕はその人のことを知っていた。一年生の頃同じクラスで、瑛奈が片思いしていた浅田圭介。まだ好きだったのか、と感心すると同時に、彼に告白したという彼女の勇気には驚いた。
「うん。それでさ、振られちゃったの。だから今日はやけファミレス! 巻き込んでごめんね」
「……そうだったんだ」
好きな人に振られてしまったのに、明るく振る舞う瑛奈を見ていると、胸が疼いた。
瑛奈はコーラやメロンソーダなどの炭酸飲料を好きなだけガブガブと飲み干した。見ているだけで身体が冷えそうな飲みっぷりだ。僕も同じように飲んでいたけれど、瑛奈のそれには叶わない。
「浅田から、聞いたんだけど。去年の運動会の打ち上げの後、美雨に告白したんだってね。浅田、今でも美雨のことが好きなんだって言ってたよ」
世間話の一つでもするかのように、するりととんでもないことを瑛奈が暴露した。
「え?」
思わず素直な反応が口から漏れる。
「え? じゃないでしょ。まさか忘れたの?」
「い、いや。確かにそんなこともあったなって……ごめん」
運動会の打ち上げの後ということは多分、僕と美雨がそれぞれの世界に戻っていった後だ。でも、美雨のノートにそんなことは書かれていなかった。わざわざ言うことでもないと思ったのだろう。
「もう、友達の好きな人なんだぞ〜? まあ、美雨が悪いわけじゃないしね。きちんと断ってくれて、むしろ嬉しかった」
「そっか……」
事情を知らない僕は曖昧な返事をすることしかできない。でも、瑛奈がこのことでショックを受けていないのは良かったと思う。もっとも、口にしないだけで本当の心のうちは分からないのだけれど。
「美雨はいないの? 好きな人」
「へ!? いや、うん、どうだろう」
「うわ、誤魔化した! そういえばあの手紙の子はどうなったのよ。その人のこと、好きなんじゃなかったの」
「ああ、手紙、ちょうど久しぶりに昨日届いたんだけど……どう返事を書けばいいか、分からなくて」
図らずも、今朝読んだ衝撃的な美雨のノートについて、ずっともやもやしていたことを瑛奈に吐露していた。彼女は「ほほう」と意味深に呟く。
「どんなことが書いてあったのか知らないけどさ、久しぶりに手紙が来たんなら、まだあんたと交友関係を続けたいってことじゃない」
「うん、それはそう……だと思う」
入れ替わりのことを言えないので、やっぱり曖昧に頷いた。
「それなら、美雨が思ってることを素直にぶつけるしかないんじゃない? ていうか、ぶつけるべき! くどくど迷ってたら、いつかタイミングを失うよ。恋ってそういうもんだよ。ここぞという時に、ガツンと行けるかどうか。もうそれにかかってると言っても過言ではない」
瑛奈の言葉には力強さがあり、僕は自然に「そうだよな」と納得させられていた。
そうだ、そうだよ。
僕たちの入れ替わりから、僕が美雨の心臓移植のドナーになることまで、すべて絶妙なタイミングで運命は動いていた。今、美雨に伝えたいことがあるなら、一秒だって無駄にはできない。こうしている間も、僕と美雨に残された時間は確実に減っているのだから。
「瑛奈の言う通りだね。私、ちょっと寝ぼけてたかも」
「もう、そうでしょ? 美雨は可愛いんだから、その子だって返事をもらえたら嬉しいはず!」
「……結局そこなの?」
僕のツッコミに、瑛奈がぷっと吹き出した。二人で大笑いしながら、残りのジュースを飲み干す。瑛奈の顔はとても満足そうだった。
「今日はありがとう。きちんと相手に向き合ってみるよ」
「ううん、こちらこそありがとうね。私も浅田のこと結局まだ諦められないからさ、まだたぶん好きでいる。それでいつか吹っ切れた
ら、またお祝いしてよね」
「そのときは和湖も一緒に」
きっとそのとき、僕はもうこの世にはいない。
でも、美雨が瑛奈や和湖と笑っている未来を守れるなら、僕は全力で美雨の命を救いたいと思う。
僕の命をきみに捧げるまでの一週間が、これから始まるんだ。
家に帰って、僕はノートのページを開いた。
彼女が勇気を出して僕に真実を打ち明けてくれたように、僕だって彼女に自分の想いを伝えたかった。
これで、伝わるだろうか。
最後まで書き綴った自分の文章を何度も読み返す。小説を書いた後、推敲している時のような気分だ。ようやく納得のいく文章が出来上がったとき、時刻はもう七時五十分を迎えていた。
『美雨へ
きみのメッセージをすべて、読みました。
正直びっくりしすぎて、本当に自分の身に起こる現実なのかと、信じられない気持ちです。でも、美雨と入れ替わってからなんとなく、美雨とはそういう運命にあるんじゃないかって、どこかで予想してたんだ。どうしてだろうね。僕は美雨にこの先絶対に会うことはできない。心の中で予感していたことが現実になっただけだって思ったよ。
自分の命が失われることは……正直怖い。
いや、ちょっと嘘をついた。
めちゃくちゃ怖い。今も、想像すると吐きそうになる。きみに言うことじゃないかもしれないけれど、それが僕の素直な気持ちです。
でも、同時に思ったんだ。
僕は、きみの未来を守れるなら、この命をきみに捧げても惜しくないって。
ふ、捧げるなんて気障すぎるね。
僕の命が、きみが生きる未来に必要なら、これ以上光栄なことはないって思えた。
そう思わせてくれたのは、美雨が僕にくれたたくさんの言葉や、美雨が僕の世界で築いてくれた家族や友人たちへの愛のおかげです。
だから美雨、どうか悲観しないでほしい。
僕はまっすぐに、きみの心臓になるよ。
入れ替わりは一週間後の四月二十四日——ちょうど修学旅行の初日までだね。
だからそれまで、思い切り今を楽しもう。
ああ、遅くなったけどさ、僕ってきみのことが好きみたい。
お互い、直接会ったこともない人に惹かれるなんて、おかしいよね。
でもきみの優しさに惹かれていた。今も、一週間後も、僕がいなくなった未来でも、僕はきみが好きだよ』
最後の一文を書き終えたとき、胸に甘酸っぱいときめきと、ほろ苦い切なさが一気に広がった。この恋は叶わない。それでも美雨に伝えたかった。現実と美雨に対する想いのギャップが僕をこの場にがんじがらめにする。それでも、美雨と最後の一週間を、全力で楽しみたい。今思うことはもうそれだけだった。
午後八時、僕の身体はするすると自分の身体へと戻っていく。
自宅の部屋の机の上に、なぜか書きかけの小説が置きっぱなしになっていた。美雨が読んだのだろうか? だとすれば恥ずかしいけれど、誰かに読まれるために書いているのだから、決して嫌な気持ちにはならなかった。
僕は小説のノートのページを開き、続きを書き綴る。あと一週間。僕が費やすことのできるすべての時間をかけて、小説を完成させたい。それだけが今僕自身に対してしてやれる、唯一の報いのような気がしていた。
空白だったタイトルの部分に文字を入れる。
『僕の命をきみに捧げるまでの一週間』。
僕が美雨と入れ替わりを果たし、美雨の心臓になるまでの話。悲劇のヒーローで自分に酔っていると思われるかもしれない。それでもいい。僕はこの物語を、最後まで書かなきゃいけないんだ。
夕飯を食べることも忘れて、僕はひたすら小説を書き綴った。母親がそっと部屋の扉を開けて「ご飯は?」と聞いてきたけれど、僕が熱心に机に向かっているのを見たからか、「こっちに持ってくるわね」と言って、お盆で夕食を運んできてくれた。母親の気遣いをありがたいと思いつつ、味噌汁を啜りながら、一心不乱に書いた。
やがて、世が明ける。いつのまにか机に突っ伏して眠ってしまっていた。
僕は今日も、美雨の中へと入っていく。
この一日が、最高の青春の一ページになりますように、と祈りながら。
『今も、一週間後も、僕がいなくなった未来でも、僕はきみが好きだよ』
朝起きていちばんに目にしたのは、彼が綴った想いのかけらだった。
僕はきみが好きだよ。
そこに書かれた文字がまるで現実ではないかのように、ふわふわと浮き立って見える。まだ寝ぼけてるのかな。桜晴が私を好きなんて、そんなこと思ってもみなかった。
「最後まで読んだんだね」
桜晴から、私の告白を読んだと返事があった。
どんな気持ちだったかな……。
悔しいだろうな。怖いだろうな。私と出会って、後悔したかもしれないな——……。
ネガティブな妄想はいくらでも広げることができた。でも、桜晴は私に「悲観しないでほしい」と言った。
僕はまっすぐに、きみの心臓になるよ。
「何よそれ……ずるいよ。青春映画かよ。小説の読みすぎじゃないのっ……」
きっと、私を励ますために書いてくれたその一文が、私の心を澄みわたる川の水のように透かしてくれる。泥のように沈んでいた気持ちが、一気に透明に変わっていた。
今日は四月十八日。入れ替わりは二十四日に終わるって、桜晴は書いている。
あと七日……。
私と桜晴がつながっていられる時間。
桜晴の命が尽きるまでの時間。
「私は……抗うよ」
桜晴には決して言えない決意を秘めて、今日も私は桜晴の中へと入っていった。
都立西が丘高校二年三組では、学年が変わってから修学旅行の話題でもちきりだった。それもそうだろう。修学旅行は一週間後に迫っている。グループ行動でどこに行こうとか、何をしようとか、そういう話があちこちから聞こえてきた。
「桜晴、お前さ、行きたいところとかないの」
「え?」
昼休み、江川くんが声をかけてくれた時、私は間抜けな声を上げてしまった。
彼とは今年も同じクラスになった。一年生の頃に仲良くしていた安達くんとは違うクラスになったのが残念だけれど。彼と一緒なら心強いと思う。
「行きたいところ……か」
「そうだよ。北海道なんて俺、人生で初めてなんだ。札幌も楽しみだけどさ、都市部は東京とあんま変わんねえかなって。北海道って言
ったら自然だろ? 初日に行く美瑛の丘とか、富田ファームとかすげー楽しみでさ〜」
意外にもロマンチストな様子の江川くんが、北海道での計画を語る。
そんな彼の楽しそうな表情を見ていると、胸をつままれたような切なさが滲んだ。
みんなに、修学旅行を楽しんでほしいなぁ。
桜晴も、楽しみにしてただろうな……。
私の世界で三年前に修学旅行で事故に遭ってしまった彼らのことを思うと、やるせない気持ちになった。
「とにかくさ、俺は嬉しいんだよ。桜晴と同じクラスで、しかも修学旅行では同じ班で行動できることがさ。だから桜晴も当日までに行きたいところがあったら遠慮なく言ってくれよ。みんなで楽しもうぜ」
「う、うん。ありがとう」
江川くんには、入れ替わりをして初めて登校した日から散々助けられてきた。そんな彼の願いを叶えてあげられないかもしれないということが、悔しい。事故が起きるのが自分のせいではないとしても、どうしてもそんなふうに考えてしまう自分がいた。
それから彼は、授業中に先生に当てられて珍しく回答ができず、「修学旅行がそんなに楽しみなのか」と呆れられていた。成績優秀な 彼のことだから、本当に旅行が楽しみで気もそぞろ状態になっていたのだろう。クラスメイトたちがくすくすと笑う。私も、みんなにつられて笑みを抑えきれなかった。
みんなの楽しみを、桜晴の笑顔を、私は守りたい。
どうしても、そう思ってしまう。
*
『和湖の吹奏楽部の練習が休みだったので、瑛奈と三人で放課後に映画を見に行きました。女の子が好きそうな——きみが好きそうな青春映画で、二人ともボロボロ泣いてた。僕ももちろん感動したんだけど、二人の前で泣くのが恥ずかしくて、トイレでこっそり泣いたんだ。トイレから戻ったら、瑛奈にトイレで泣いたでしょって指摘されて焦ったよ。美雨は泣き虫なんだからすぐ分かるって笑われた。きみ、泣き虫なんだね? 新しい一面が分かって、なんかほっこりした。あ、青春映画の内容は小説に活かそうと思ってしっかり心のメモに書き留めておいたよ。抜かりないでしょ。内容は……切なくて、自分と美雨に重ねずにはいられなかったけど、それも含めて感動したんだ。
残り一週間、もっと知らないきみを知っていきたいし、瑛奈たちとの思い出も大切にしたい。きみが、僕のいなくなった世界でも寂しくないように、友達とは素敵な関係を築いていたいんだ。……なんて、きみと入れ替わる前の自分からすれば、本当にびっくりするような気持ちの変化に自分でも驚いているよ。僕は吃音で、まともに友達なんていなかったのにね。こんなふうに友達と楽しい毎日を送れるようになったのは、全部きみのおかげだ。ありがとう』
*
『今日は江川くんと、修学旅行の話をしました。彼、すごく楽しみにしてて、授業中に先生から当てられても答えられなかったんだよ。珍しくない? でもそれくらい、彼の中でもみんなの中でも来週の修学旅行が本当に大切な行事になるって思い知らされた。三年前の桜晴もきっとそうだったんだろうなって思うと、なんだか泣きそうになった。ダメだね、私。残り一週間楽しむって決めたんだから、元気出さなくちゃ!
でもさ……もし叶うなら、バスが事故に遭わない未来があればいいなって、やっぱり考えちゃう。そうなったら自分の命が助からなくなるかもしれないのに、馬鹿だよね。だけど私は、自分のためだけに誰かの命を粗末にするような人間にはなりたくないんだ』
夜、机の前で筆を置くと、なんだか暗い空気にしちゃったかな、とちょっぴり後悔する。でも今自分が抱いている感情に、嘘偽りはない。桜晴が生きている未来があればいい、と本気で願っている。私はたぶん、どうかしている。
桜晴の綴る一日は、自分が瑛奈たちと映画を見て泣いている姿を想像してしまい、笑ってしまった。恥ずかしい一面を知られてしまい、耳までカッと熱くなる。瑛奈と和湖に散々揶揄われたんだろう。うぅ。でもまあ、桜晴が楽しかったのならよかった。
どんな映画だったんだろう。小説に活かそうって書いてあるし、きっと素敵な物語だったに違いない。いいな。私も見たかった。でも、桜晴が書く小説の方が、もっと楽しみ。
日記の最後の一文は、私の胸にストレートに響いてくる。
——こんなふうに友達と楽しい毎日を送れるようになったのは、全部きみのおかげだ。ありがとう。
「違うよ。私のおかげじゃないよ。桜晴が……自分で瑛奈たちと向き合おうとしてくれたからだ」
桜晴は自分で思っているよりずっと素敵だし、もっと自信を持っていい。あなたが魅力的な人間だからこそ、瑛奈たちはずっと友達でいてくれる。
ありがとうを伝えなくちゃいけないのは、私の方だ。
*
『四月十九日。なんていうこともない週半ばなのに、学校で授業を受けているだけで、一分一秒が惜しく感じるよ。北海道って、四月でもこんなに寒いんだね。まだ冬みたいだ。でも少しずつ、確実に雪解けに向かっていると思うと、暖かくなって花が咲くまで、雄大な自然の風景を見てみたいな、なんて。
バスの事故に遭わない未来があればいいって、そんなふうに思ってくれる人と出会えただけで、僕は嬉しいんだ。言うまでもないと思うけど、僕は美雨に生きてほしいし、幸せになってほしい。お互い、誰かの命ばっかり大事にして、おかしいよね。でもさ、好きだからしょうがないよ。……一度好きって言っちゃったら、何回でも言えるね。恥ずかしいけど。何度だって言うよ。僕は美雨のことが好きだって』
『もう、そんなに好きだって言われたら恥ずかしいじゃん! ノート読みながら熱くなってるとこ、お母さんに見られでもしたらたまったもんじゃないね。今日危なかったんだよ。あんまり集中してノートを読んでたからお母さんが部屋の前まで夕飯に呼びに来て、危うく醜態を晒すところだったんだからっ。好きの乱用は禁止!
桜晴の世界では土曜日だったから、江川くん、安達くんと遊びに行ったよ。街に出て、買い物とボーリング。男の子ってどんなふうに遊ぶんだろって思ってたけど、子供みたいに全力ではしゃぎながら遊べて楽しかった! まあ、瑛奈や和湖といる時も、周りからすれば子供だって思われてるかもしれないんだけどさ。男同士、クサイ話もできたよ〜? 私は本当に友達に恵まれてる。桜晴が人格者のおかげかな?(笑) とにかく今日も楽しかった。ありがとう』
*
『四月二十日。江川くんたちとボーリング!? まさか、僕が休日に友達とアクティブに遊びに出かけるなんて、ありえないよ。中学時代の僕なら、絶対に誰も想像できないと思う。きみって本当にすごいし、尊敬する……。僕の方は今日、学校で数学の難しい問題を当てられてどうしようかって困ってたんだけど、じっと考えたらなんと答えが降りてきてね。頭まできみの頭脳に入れ替わったんだと一瞬思ったくらい、びっくりした。きみに影響されて、計画的に勉強できるようになったおかげかな。なんて言ったって、こっちで下手な点数とると、きみの成績に関わるからね。最近はずっと高得点取れてるし、ほっとしてます。明日もうまく立ち回れるように、帰ったら勉強しますよ(笑)』
『桜晴、すごい勉強頑張ってくれてありがとう! 最初はどうなることかと思ったけど、無事にいつもテストで良い点数取れてるみたいだから安心しています。あ、でも気抜いたらダメだよ? 赤点なんて取ったら許さないからね〜?
私は今日、家族で秋真の野球の試合を見に行きました。秋真、推薦の話をもらってからすごく一生懸命に練習に取り組んでいます。お父さんたちも今まで以上に熱心だよ! でも最近は私——桜晴の進路のことも心配みたいで、しょっちゅう成績のこととか聞いてくる(笑)私、東京の大学をほとんど知らないから、有名大学の名前を適当に志望校にしてるけどさ、すっごい偏差値高いところでびっくりしてたよ。勝手に話をでっちあげてごめんね。また修正しておいて(笑)
明日からまた月曜日だし、きっと修学旅行の話で持ちきりだよね。
私は最後まで諦めないからね』
*
『びっくり。僕の志望大学適当に答えちゃったの? きみ、よくそんな大胆なことができるね。東京の有名私立大学だったら軒並み偏差値高いから僕には絶対無理だって! 夜、自分の世界に戻ったら訂正しておくよ……。
ここ数日さ、学校で空き時間にずっと小説のことを考えてるんだ。なんとしてでも今書いてる小説を完成させたくて。実は、自分の世界に戻ってから夜中まで書いてるから、僕の身体は相当寝不足だろ? 申し訳ないと思うけど、ちょっと頑張らせてほしい。絶対に、残りの時間で小説を書き終えるからさ。そしたら美雨、僕の小説を読んでくれるかな? なんてね。恥ずかしいから、あんまり自分の口からは言えないけど。でも、読んでくれたら嬉しいと思う』
『小説、書き進めてるんだ。絶対読むに決まってるじゃん! ここ最近、確かに身体がだるいな〜って思ってたけど、そういうことだったんだね。私の方は大丈夫! 時々授業中に居眠りして怒られることもあるけど。きみは私と違って優等生じゃないから、怒られても不審がられないよ(笑)桜晴の小説、すごく楽しみだなあ。私の好みに合ってる自信があるよ。身体を壊さない程度に、最後まで頑張ってください。
ああ、修学旅行はあと四日かあ。なんだかすごくドキドキして、眠れないことが多いんだ。桜晴が頑張ってるのに、自分だけ情けないよね。私はもっと桜晴と一緒にこうして日記のやりとりをしていたいからさ、どうしても考えちゃう。奇跡が起こってこの先どこかで二人が出会えますようにって、願掛けしながら目を瞑るの。そしたら、夢で桜晴に会えてすごく嬉しかった。……ああ、恥ずかしいね、こんな話。でも今だけは、素直になりたいよ。桜晴に、会いたい』
*
『僕も、美雨に会いたい。何かの運命が違っていたら会えたのかも、と思うと、すごく切なくなる時がある。今はね、会いたいと思ってくれることがたまらなく嬉しいんだ。僕も、こんなこと言う人間じゃなかったんだけど。美雨に会ってから、すごく素直になれてるような気がする。
今日は美雨の世界では土曜日で、何して過ごそうか迷ってたんだけど、美雨のお母さんに連れられて、お墓参りに行きました。お父さんの命日だったんだね。そんな日にまで入れ替わってしまって、なんだか申し訳なかったな。でも、美雨のお父さんと話すことができて良かったよ。お墓、すごく綺麗にしてあって、美雨と美雨のお母さんがどれだけお父さんのことを愛していたか、伝わってきた。
……僕の人生に、そういう瞬間があったかなって、自分を顧みずにはいられなかったよ。自分に期待しない両親のことを、僕はどこか冷めた気持ちで見ていたのかもしれない。今日、家に帰ったら両親や秋真との残りの時間も大切にしようって思えた。そのことに気づかせてくれたのもやっぱりきみだよ。ありがとう』
『お墓参り、私の代わりに行ってくれてありがとう。もう十一年も経つんだ。お父さんがいない生活に慣れちゃってるけど、やっぱりお父さんが今もいてくれたら……って思うこともあるよ。桜晴の家族だって、桜晴がもしいなくなったら同じこと思うよね。ごめん、感傷的にならないように気をつけてるのに、つい考えちゃうんだ。桜晴の言うとおり、私も桜晴としての最後の一週間を、全力で生きるよ。
私の方は今日学校で、修学旅行の計画を立てました。グループに分かれて自由行動で行きたいところを出し合って、どう回るか決めるやつ。私、北海道には詳しいでしょ? 一人だけ場所とか距離感とかよく知ってるから、大活躍でした! 友達には北海道旅行には何度か行ったことがあるからって適当に嘘ついたけど、絶対不自然だったよあれ(笑)先生からも、鳴海はやけに詳しいなって感心されちゃった。へへ、きみの評判を私がどんどん上げていくね? いいでしょ、入れ替わった甲斐があって。これからもきみの名誉は私が守る!」
*
『日記読んだよ。あのさ、きみが僕の評価をどんどん上げてくれるのは嬉しいんだけどね、僕が元の世界に戻ったら、かなり人格違いすぎてびっくりされない? 二年生で新しく知り合った人も多いだろ? また吃音も出るかもしれないし。あ、でもそうか。もう戻ることもないかもだし、大丈夫か(笑)ここ、笑うとこだよ。ブラックジョークだよ。タチの悪い冗談はやめろって? そうだね。僕は全力で今を生きているし、全力でその日を迎えるから覚悟はできてるよ。何かの運命の間違いでもし修学旅行のその先も生きていられたら——僕はきっとクラスで大恥をかいて笑い者になる。二重人格だろって疑われそうだね。その時はきみにありったけの文句を叫ぶよ。
と、冗談はさておき。今日は日曜日だったから、美雨のお母さんがたまには出かけようって言ってくれて、『青い池』に連れてってくれたよ。地元の人はあんまり行かないのかな? 美雨のお母さんも、三年ぶりだって言ってたし。あの池、すごく綺麗だった。写真で見たのと同じ青色の池があって、思わず写真を撮りまくりました。美雨のスマホ、勝手に使ってごめん。いらない写真は削除してくれて大丈夫。『青い池』に行って、近くの道の駅で昼ごはんを食べてたらさ、なんだか修学旅行に来た気分になった。嬉しいよ。だって僕って、修学旅行の最中に事故に遭うんだろ? せっかくの旅行が台無しになるの、実はかなり残念だと思ってたから。みんなよりひと足先に観光地に来られたのは、やっぱり入れ替わった相手が美雨だったおかげだね。ありがとう!』
『四月二十三日。とうとう明日で入れ替わりが終わっちゃうね。青い池、楽しかった? 桜晴の話を聞いたら、なんだか私も久しぶりに行きたくなっちゃったよ。お母さんとデート、最近行けてないからいいな。その分私もこっちで桜晴の家族と楽しんじゃってるからおあいこか。……ううん、桜晴が家族と過ごす大切な時間を奪ってしまってるから、あおいこではないよね。
明日さ……心のどこかで、運命は変えられるんじゃないかって思ってる自分がいて。いや。変えたいって、本気で思ってる。
だから桜晴、私の選択をどうか見守っていてほしい。
最大限の愛を込めて。
私は桜晴、きみを全力で守るよ』
一週間、私たちは今まで通り——いや今まで以上に全力で入れ替わりの日々を楽しんだ。
桜晴と約束したから。
最後の一週間が終わるまで精一杯この時間を大切にしようって。
だから、悲しい気持ちを押し殺して楽しんだつもりだ。時々日記に、気持ちが溢れちゃうこともあったけれど、彼と入れ代わりが始まってから、いちばん幸せなひとときだった。
「明日、きみを守るよ」
机の前で、何度も胸に決意を秘める。
明日の朝、私は桜晴と最後の入れ替わりを果たす。
そして、修学旅行へは——行かない。
親には心配されると思うけれど、明日の午後八時まで、桜晴の部屋に引き篭もるつもりだ。
「絶対、大丈夫だよね」
修学旅行にさえ行かなければ、バスの事故に遭うことない。そうすれば桜晴の命は助かる。
私の命は、助からないかもしれないけれど——。
それでもいいと思える人に出会ってしまった。
お母さん、ごめんね。
たった一人、私が消えた世界で悲しみに暮れる母の姿を想像すると、胸が詰まって涙が溢れてきた。
私にも、大切な人ができたんだ。
お母さんと二人で過ごした時間を、宝物にしているから。
だから大丈夫。
私はもう、怖くない。
トクン、トクン、と揺れる桜晴の心臓の音を感じながら、布団に潜り込む。
どうか明日、桜晴の命を守り切れますように。
胸に抱いた決意は、いつのまにか深い眠りの中に沈んでいった。
***
チチ、チチ、チチ
朝七時半に目を覚ました私は、まだ自分が夢の中にいるような感覚でぼんやりと天井を見つめていた。夢の中で、桜晴が笑顔で私に語りかけてくれていた。もし彼と出会うことができたら、こんなふうに笑い合っているんだろうなって想像できて胸が疼いた。
ベッドの上で再び目を閉じて、今日の自分の行動を頭の中で反芻する。
八時に桜晴と入れ替わって、桜晴の母親に嘘をつく。体調が悪いから修学旅行には行かないと言い張る。母親も、さすがに体調が悪い息子を修学旅行に行かせようとは思わないはずだから、それでなんとか誤魔化せるはずだ。
「江川くんたちには申し訳ないけど……」
同じグループの、特に江川くんのことを思い出してちょっぴり罪悪感が芽生えた。彼は、桜晴と修学旅行に行けることを楽しみにしていたから。でも、桜晴の命には代えられない。心の中で「ごめんね」と謝って、その時を待った。
机の上に置いてあるノートをもう一度読んで決意を固めようと思ったけれど、やっぱりやめた。今ノートを読んだら、感情が高ぶってしまいそうだったから。時計の針が時間を刻む音だけに、神経を集中させていた。
あと、三十秒。
三十、二十九、二十八……。
桜晴と最後の入れ替わりの時間が始まる。目を閉じたまま完璧にシュミレーションした一日の流れを、最後にまた思い浮かべて。私の視界はホワイトアウトする——はずだった。
「……」
カチ、という小気味良い音がして、時計の短針が「八」に、長針が「十二」に合わさる。いつもならここで、視界が真っ白になって、気づいたら桜晴の身体と入れ替わっている。今日が入れ替わりの最後の一日だ。それなのにどうして、私はまだ自分の部屋にいるの……?
「どういうこと……」
自分の頬や、腕や、膝や、お腹をペタペタと触る。やっぱりちゃんと「私」のままだ。
「桜晴……なんで?」
何が起こっているのか、瞬時には理解できなかった。
「美雨ー早く朝ごはん食べなさいよ〜」
お母さんが私を朝ごはんに呼ぶ声を聞いたのは何ヶ月ぶりだろうか。
バクバクバクと、早鐘のように鳴り響く心臓が、私に一つの真実を嫌でも突きつけてくる。
「嘘……そんな、そんなこと」
震える身体をなんとか押さえつけながら立ち上がり、先ほど開けなかった机の上のノートを乱暴にめくる。
嘘、嘘だ……!
『入れ替わりは一週間後の四月二十四日——ちょうど修学旅行の初日までだね。』
私が真実を打ち明けたあと、確かに桜晴は日記にそう書いていた。私も、何も疑うことなく桜晴の言うことを信じて、入れ替わりは修学旅行の初日までだと思い込んだ。
でも……私が桜晴に本当のことを伝えたのはいつ……?
四月十六日の夜。
桜晴がそのノートを読んだのは四月十七日だ。
私は、十七日から七日後——つまり、十七日を含めずに七日後の二十四日に、入れ替わりが終わると思っていた。桜晴も日記にそう書いてある。だから疑うことはしなかった。
だけど、実際は違った……?
十七日を含めて七日後——それなら、二十四日ではなく、二十三日が入れ替わりの終了日ということになるのではないか。
ようやく確信的な事実に気がついて、私はその場に崩れ落ちる。
そんな、おかしいよ。だって、桜晴は今回の入れ替わりが初めてじゃないんでしょ……? 過去の話を打ち明けてから一週間後がいつなのか、正確な日にちを、桜晴が知らないはずがない。
「私は……騙された?」
一つの可能性に思い至り、息が止まりそうだった。心臓の動きが激しくなりすぎて痛い。右手でノートを握りしめたまま、左手で左胸をぎゅっと押さえつける。