「刀坂くん。泣かないで」

 いつのまにか、鏡宮は体を起こして僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。そうして壊れ物を扱うかのようにそっと手を伸ばして、僕の目尻を細い指で拭う。

「謝るのは私の方だよ。せっかく刀坂くんとこうして友達になれたのに、いきなりいなくなっちゃったりして。私の方こそ、ごめんなさい……」

 彼女もまた後悔するように、眉尻を下げ、今にも泣きそうな顔で言った。

「あのときは頭の中がぐちゃぐちゃになって、自分でもよくわからなくなっていたの。たぶん、ヤケになってたんだと思う」

 猫の切りつけ事件の真相がわかって、取り乱してしまった。そんな彼女を誰も責められるはずがない。

 彼女に「泣かないで」と言われた手前、僕はすぐにでもそうしたかったけれど、涙は次から次へととめどなく溢れて、なかなか止まらなかった。

「それにね。私、刀坂くんにお礼を言いたかったの」

「お礼?」

 予想外の言葉が彼女の口から出て、僕は首を傾げる。

「あのとき……声が聞こえたの。刀坂くんの声が」

 言いながら彼女は、僕の右手をそっと両手で包み込んだ。手のひらから伝わってくる体温が、彼女がここにいることを証明してくれる。

「あのとき……って?」

「たぶん、私が消えた後。私は、なんだかふわふわした空間にいて……。ずっと一人で泣いていたの。自分なんてもうどうなってもいいと思ってたのに、寂しさはだけは全然消えなくて……そんな時に、刀坂くんの声が聞こえたの。『鏡宮を返してくれ』って」

 それは、僕がカミサマに向かって口にした言葉だった。
 僕の声が、彼女に届いたのだ。

 鏡宮を返してほしい——そんな僕の願いを、神様は聞き入れてくれた。そしてそれを、鏡宮の元へ届けてくれたのだ。

「刀坂くんが呼んでるって、私を捜しに来てくれたんだって、わかった。だから私は、すぐにでも刀坂くんの元に帰りたくなったの」

 こちらをまっすぐに見つめてくる彼女の瞳から、一筋の涙が零れ、頬を伝った。

「刀坂くんの声が聞こえて、すごく嬉しかった。だから私も声を上げたの。これからもずっと、刀坂くんと一緒にいたい。ずっと一緒にいさせてくださいって、神様にお願いしたの」

 鏡宮も、神様にお願いした。
 優しい神様はその願いを聞き入れて、彼女を僕の元へと返してくれた。

 すべては僕らの願ったことで、神様はただ僕らの心に寄り添ってくれていたのだ。

「そう……か。じゃあ僕らは、神様に本当に感謝しないと」

「だね。でも……神様はもう、行っちゃったみたい」

 今はもう、カミサマの姿はどこにもない。
 社殿の中も確認してみたけれど、あの白猫の姿は今度こそ消えてしまっていた。

 誰にも管理されることのなくなった廃神社は、神様の力が弱まっていく。
 僕が最後に見たあのカミサマは、本当に最後の姿だったのだ。

「そういえば、雨は止んだんだね」

 鏡宮が言って、僕は空を仰ぐ。
 相変わらず周りは高い木々に囲われているけれど、風に揺れる葉の隙間から、白い木漏れ日がきらきらと降っていた。

「梅雨の晴れ間だね。私、好きなんだぁ」

 そう言った彼女の横顔は、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。

「そういえば、今ってどういう状況なんだ? 時間と、それから日付も……」

 ふと思い出して、僕は制服のポケットからスマホを取り出す。
 最後にここでカミサマに会ったとき、空は夕焼けの色に染まっていた。けれど今はどう見ても昼間で、時間の感覚がわからない。
 あのときは境内にクラスメイトたちも集まっていたけれど、今ここにいるのはどう見ても僕ら二人だけだった。

 スマホで確認すると、時刻は十六時前だった。ちょうど放課後の時間帯で、いつも僕らがここを訪れる時間だ。
 日付は、鏡宮が消えてしまう日の前に戻っていた。猫の切りつけ事件のことで机にイタズラをされていたあの日の、さらに前日。

 あれだけ慌ただしかった二日間の出来事が、おそらくはきれいさっぱり無かったことになっていた。

 何もかも、神様の仕業だった。
 僕らが礼を言う暇もなく、あの優しい神様は、どこか遠いところへいってしまったのだった。



「ねえ、鏡宮。キミは、もうどこにも行かないよね?」

 境内の真ん中に立って、僕は尋ねた。
 少し前を歩いていた鏡宮は、くるりとこちらを振り返って僕を見る。

「これからもずっと、僕と一緒にいてくれる?」

 重ねて聞くと、彼女はちょっとだけびっくりした顔をして、けれどすぐに笑って答える。

「もちろんだよ。だから刀坂くんも、ずっと……私のそばにいてくれる?」

 彼女の頬が、ほんのりと赤い。
 きっと僕も同じような顔をしている。

 これからもずっと、彼女と一緒にいたい。

 鏡宮にとって、必要な存在でありたい。

 この先、もう二度と、キミが消えてしまわないように——。