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翌朝は珍しく寝坊した。
やはり体調が悪いのか、何度アラームが鳴っても脳が覚醒しなかった。
走ればギリギリ学校に間に合う時間にやっと起きて、慌てて家を出る。
両親はすでに出勤している。
昼の弁当はいつも自分で作っているが、今朝はその余裕すらなく、誰もいない家に鍵をかけて外へ飛び出す。
通学路をひた走りながら、やはり風邪気味だな、と思った。頭がやけに重いので、微熱があるのかもしれない。
けれど、今日は学校を休むわけにはいかない。
昨日の今日で、鏡宮のことが心配だった。
あの教室で、彼女を一人にさせたくはない。
まあ、僕がいなくても、榊くんがいれば彼女は大丈夫だとは思うけれど……。
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なんとか予鈴五分前に教室へ入ると、そこはいつもの賑やかな雰囲気だった。昨日のような張り詰めた空気はどこにもない。
僕が机に向かう間も、周りがこちらを気にする素振りはなかった。
昨日のことがあった割にはやけにあっけらかんとしているな、と思ったけれど、鏡宮はまだ来ていないようだったので、まあこんなものかと思う。
「おはよーみんな!」
と、そこへ元気な声とともに教室へ入ってきたのは榊くんだった。
彼の一声で、その場にいた全員の視線が集まる。相変わらず人気者の彼は、部屋のあちこちから挨拶を投げかけられていた。
あの様子だと、鏡宮からは良い返事をもらえたのかもしれない。榊くんはいつもの朗らかな笑みを浮かべて、クラスのムードメーカーっぷりを遺憾無く発揮していた。
ほどなくしてチャイムが鳴り、担任の男性教師が中へ入ってくる。
この時点でまだ鏡宮が登校していないことに、僕は眉を顰めた。
「出欠とるぞー」
生徒の名前が一人ずつ呼ばれていく。
鏡宮は休みなのだろうか。
僕と同じで、風邪でもひいたのだろうか。
そういえば、昨夜のメッセージにもまだ返信していなかった。体調のことも気になるし、後で連絡してみよう。
いや、体を休めているときに送るのはあまり良くないのだろうか……。
「刀坂。いないのか。いるなら返事しろ」
いつのまにか、僕の名前が呼ばれていた。
「あっ……は、はい!」
慌てて返事をすると、担任は続けて次の生徒の名前を読み上げる。そうして最後の一人まで確認を終えると、
「よし。全員出席だな」
と、耳を疑うようなことを口にした。
(えっ……?)
鏡宮の名前が呼ばれていない。
彼女は欠席しているはずなのに、『全員出席』とは一体どういうことなのか。
担任はそのままホームルームを始めようとしたので、僕は思わずその場に立ち上がって言った。
「あの、先生。鏡宮はどうしたんですか?」
教室中の視線が、一斉に僕の方へと集まった。
担任教師はどこか不可解そうな顔をして、
「かがみや? 何のことだ?」
さらりとそんなことを言われて、僕は困惑した。
「何って……。鏡宮は、鏡宮ですよ。このクラスにいる……」
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。このクラスに『かがみや』なんていう生徒はいないだろう」
わずかに苛立ちを含んだ声で彼は言った。
鏡宮という生徒は、このクラスにいない。
一体何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。冗談でも言われたのかと思ったが、そんな雰囲気は一切ない。
この担任教師は、鏡宮の存在を完全に忘れてしまっている。
さらには周りのクラスメイトたちも、
「何? いきなり何言ってんの、あいつ」
「ドッキリか何か?」
「誰だよ『かがみや』って」
口々に飛び交う、僕への嘲笑の言葉。
混乱する僕に追い打ちをかけるかのように、
「刀坂」
遠くの席から、榊くんの声が届く。
「どうしたんだよ。何かヘンな夢でも見たのか?」
彼がそう言った直後、耐え切れなくなったと言わんばかりに周りがどっと笑い始めた。
誰も鏡宮のことを覚えていない。
僕の言うことを、夢か幻だと思っている。
デジャヴだった。
彼女がここに存在したという事実が、きれいさっぱり消えてしまっている。
まさか、彼女まで連れていかれてしまったのか?
「鏡宮……」
背筋が寒くなる。
また、あの時と同じだった。
鏡宮が消えてしまう。
僕の前からいなくなってしまう。
彼女を、捜しに行かなければ。
「鏡宮!」
僕は血相を変え、弾かれるようにしてその場から駆け出して、教室を飛び出した。