「お待たせしてごめんなさいね」
不意に部屋の扉が開いて、先ほどの女性が入ってきた。彼女に支えられる形で、もう一人老齢の女性が顔を見せる。
「あらあら。可愛らしいお客さまね」
一際高い、愛らしい声でその女性が言った。シワの刻まれた顔には優しげな微笑が浮かんでいる。髪は真っ白だが、清潔にセットされてどこか上品な趣がある。足が悪いらしく、室内用の杖を突きながら、彼女はゆっくりと向かいのソファに腰を下ろした。
「はじめまして。玉木さんのお孫さんのお友達、だったかしらね?」
その口ぶりから、彼女が玉木の祖父母の知り合いであることがわかる。
「老人の昔話なんて、若い人にとっては何の面白みもないものだと思っていたけれど。あなたたちみたいな高校生の子に興味を持ってもらえて、とっても嬉しいわ」
彼女はそう言って、茶目っ気のある笑顔を見せる。年齢はおそらく僕らの何倍にもなるのだろうけれど、どこか可愛らしい雰囲気のある人だった。
お互いに簡単な自己紹介を済ませたところで、娘さんがお茶とお菓子を持ってきてくれる。
彼女らの苗字が三輪山さんだとわかったところで、僕は本題を切り出した。
「それで、その……『神隠し』のことなんですけど」
玉木の話が本当なら、この女性は例の神社で神隠しに遭った人物を知っているのだ。
「ああ。そうだったわね。もうずいぶんと昔のことだから、私の記憶が間違っているところもあるかもしれないのだけれど」
彼女はそう前置きしてから、静かに語り始めた。
「もう五十年以上も前になるわね。……私には昔、兄がいたの」
今から半世紀以上前、三輪山さんには年の離れた兄がいた。彼は一家の長男ということもあり、両親からは厳しく育てられていたという。
「とても真面目な人でね、親の期待に応えようとして、いつも無理をしていたわ。幼かった私のことも、とっても大事にしてくれた。けれど、そうやって周りへの配慮ばかり優先していたせいで、自分のことは疎かにしてしまう人だった。だからあの人は……最終的に、心が壊れてしまったの」
周囲の期待に応えようとするあまり、その重圧に耐えきれなくなって壊れてしまった。なんとも気の毒な話だと思う。今とは時代も違うし、どれだけの責任がその身に伸し掛かっていたのかもわからない。
けれど、それが神隠しと一体何の関係があるというのか。
「最後のほうはね……あの人はずっと、『消えてしまいたい』と言っていたの。誰にも迷惑をかけずに、ひっそりといなくなってしまいたいと。だから……きっと神様が、それを叶えてくれたのでしょうね」
「神様?」
唐突に出てきた神様というワードに、僕は反応した。
「あの山の陰にある神社——『御霊白神社』にはね、猫の神様がいるのよ。私も幼い頃、兄と一緒によく遊びに行ったわ。兄はきっと、その神様に見初められて、連れていかれてしまったのだと思う。兄はある日突然、姿を消したの。いいえ、姿だけじゃない。その存在ごと、この世からきれいさっぱり消えてしまった。私はもともと一人っ子で、兄なんてどこにも存在しなかった……そういうことになっていたの」
ある日突然、この世から消えてしまった。
まるで最初からそこに存在しなかったかのように、その人は何の形跡もなく消滅してしまった。
同じだった。
あのお姉さんと。
「もちろん、信じてもらえるとは思っていないわ。兄がここに存在したという証拠なんてどこにもないんだもの。ただ、私の記憶の中に残っているだけ。この世でたった一人、私だけが彼のことを覚えているの」
語りながら、彼女はどこか寂しげに目を伏せる。
自分だけが覚えている人。誰にも信じてもらえない真実。
そして、あの神社に祀られているという猫の神様。
何もかも、思い当たることばかりだった。
だとしたら、あの人は。
(あのお姉さんも、まさか……この世から消えてしまいたいと思っていたのか?)
ずきん、と胸が疼く。
三輪山さんは記憶の中の兄を思うように、そっと胸に手を当てて、伏せられた瞳から一筋の涙を流した。