いつか、君が消えてしまわないように

 
「よかった。刀坂くんが笑ってくれて、私も嬉しいよ。刀坂くん、なんだかずっと寂しそうな顔してたから」

「寂しそうな顔って……」

 そういえば、昨日もそんなことを言われたな、と僕は苦笑した。
 思えば人前で笑顔を見せることなんて、ずいぶんと久しぶりのような気がする。

「ねえ。よかったら私も一緒に、ここでそのお姉さんの帰りを待ってもいいかな?」

 段々といつものテンションを取り戻し始めた鏡宮は、いきなりそんなことを言い出した。
 虚を突かれた僕は一瞬反応に迷ったけれど、特に断る理由もなかったので、「まあ、それは別に」と、それとなく答える。
 本当はちょっとだけ嬉しかったりするのだけれど、なんだか気恥ずかしくて、口には出さなかった。

「なぁーお」

 と、そこへふてぶてしい鳴き声が届く。

 僕と鏡宮が同時に視線を落とすと、そこには不機嫌そうに薄目を開けたカミサマが丸まっていた。
 まるで自分の存在を忘れられて不貞腐れているようにも見える。

「ああ。そういやカミサマ、そこにいたんだっけ」

「かみさま?」

「こいつの名前。僕が勝手に付けたんだ」

 それを聞いた鏡宮は、ふふっと可笑しそうに笑った。

「確かに『神様』って感じがするね。こんなに毛がボフボフだし」

「ボフボフじゃなくて、ボサボサだよ」

 そんな他愛もない会話を続けているうちに、西の空は少しずつ赤みを帯び始める。

「それじゃ私、門限あるから。先に帰るね」

「あ、うん……」

 鏡宮はその場に立ち上がると、屈託のない笑みを僕へ向ける。それからひらひらと手を振って、こちらに背を向けた。
 次第に遠くなっていくその後ろ姿は、夕暮れの淡いオレンジの光に当てられて、どこか儚げに見えた。

(鏡宮は、突然いなくなったりなんかしないよな?)

 ふと、そんなことを思う。

 十年前、あのお姉さんはある日を境に、忽然と姿を見せなくなってしまった。
 それまで毎日のようにここで僕と遊んでいたのに、ある日突然、何の前触れもなく姿を消してしまったのだ。

(いや。いま思えば……)

 もしかすると、何か前触れはあったのだろうか。
 当時の僕が、ただ気づいていなかっただけで。

「なぁーお」

 再びカミサマの鳴き声が届いて、僕の意識は一気に現実へと引き戻された。

 けれど、

「カミサマ?」

 声のした方を振り返っても、カミサマの姿はどこにもなかった。
 確かに今、声はすぐ後ろから聞こえたような気がしたのだけれど。

 そうして視線の先では、かすかに届く夕焼けの色に染められて、例の社殿が静かに鎮座していた。
 本殿と拝殿とが一体になったボロボロの建物。いつの時代に建てられたのかもわからない木造のそれは、格子戸のガラスが割れ放題になっている。

(この神社の神様って、まだここにいるのかな)

 ここまで荒れ果てた境内を眺めていると、つい疑問に思ってしまう。
 どこの神社にも神様はいるはずだけれど、長年手入れされていないであろうここに祀られた神様は、果たして今もそこにいるのだろうか?

「……そろそろ帰るか」

 段々と風も冷えてきた。
 日が落ちる前に僕も帰ろう——そう思って鳥居の方へ一歩足を踏み出したとき、

「なぁーお」

 僕の背後でまた、猫の鳴き声がした。
 けれど後ろを振り返っても、カミサマの姿はやはり見当たらなかった。


 後から思えば、それは別れの挨拶だったのかもしれない。

 その日以来、カミサマは忽然とその姿を消してしまったのだった。
 
 
「今日もいないね、あの猫ちゃん」

 昼間でも薄暗い境内を見渡して、鏡宮は残念そうに言った。

 山の陰にひっそりと存在する、いつもの神社。そこを根城にしているあのボサボサの白猫。
 この十年間、僕はほぼ毎日のようにここを訪れていたけれど、その白猫——カミサマの姿を見ない日はなかった。

 それがここ数日、カミサマはぱったりと僕らの前に現れなくなってしまった。試しに名前を呼んでみても、今は鳴き声一つ聞こえてこない。

「せっかく煮干しも残したのにな」

 僕は拝殿の段差に腰を下ろすと、昼に残しておいた煮干しを取り出して口へ放り込んだ。
 隣に座った鏡宮にも「食べる?」と聞くと、彼女は少しだけ考えた後に「うん」と頷いて、受け取ったそれをポリポリとハムスターのように齧る。

 こうして彼女と二人、放課後にここを訪れるのはもはや日課となりつつあった。
 僕がずっと待ち焦がれているあのお姉さんの帰りを、鏡宮も一緒になって待ってくれている。

 鏡宮が転校してきてから、すでに一週間ほどが経過していた。
 僕は相変わらずクラスで浮いているけれど、鏡宮はなんとか少人数の女子グループに入ることができたようだ。メンバーは比較的おとなしいタイプの子が多くて、他愛もない会話をしながら穏やかに過ごすことができている。

 そして、以前鏡宮のことで陰口を叩いていた例の女子グループは、今や教室の隅に追いやられてしまっていた。僕らのクラスはどうやら常識人が多いようで、風紀を乱す生徒にはあからさまに白い目が向けられる。
 といっても、当の鏡宮はもはや気にしていない様子だけれど。

「猫ちゃん、本当にどこに行っちゃったんだろ。……心配だね」

 元気でいてくれたらいいけど——と、彼女は心細げな声を漏らす。

「まあ、そのうちひょっこり帰ってくるんじゃない?」

 僕はわざと軽い口調で言った。
 あのカミサマのことである。心配させるだけさせておいて、数日後にはまるで何事もなかったかのように戻ってくるかもしれない。

 とはいっても正直なところ、不安を拭うことはできなかった。
 カミサマの年齢ははっきりとはわからないが、少なくとも十歳以上であることは確定している。見た目もあれだし、そろそろ老衰でぽっくり逝ってしまってもおかしくはない。

「私、探しにいってみようかな。あの猫ちゃんのこと」

「え?」

 鏡宮は急に思い立ったように言って、その場に立ち上がった。

「もしかしたら、他においしい食べ物をくれる人がいて、そっちに縄張りを移しちゃったのかも」

 餌に釣られて、棲み家を移した。
 あれだけ食い意地の張っているカミサマなら有り得なくもない。

「どこかで元気にしてくれていたらそれでいいけど、姿が見えないままじゃ心配になるし。私、あの子を探しに行くよ。刀坂くんはどうする?」

「え、僕?」

 唐突に振られて、僕は反応に困った。

「いや、僕は……あのお姉さんのことをここで待っていたいし」

「でも刀坂くん、ここで十年もそのお姉さんのことを待ってるんだよね? 待つだけじゃなくて、自分から捜しに行くっていうのも有効な手段かもしれないよ。刀坂くんが動くことで、もしかしたら何か手掛かりが掴めるかもしれないし」

 そう言われて初めて、僕はその可能性を見出す。

 あのお姉さんのことを、僕が自ら捜しに行く。
 今まで考えたこともなかった。
 だって、僕の思い出の中にいる彼女は、この神社の境内でしか会うことはできなかったのだから。

「あの猫ちゃんのことも、お姉さんのことも、一緒に捜しにいこうよ」

 ねっ、と小首を傾げながら、彼女はこちらへ手を伸ばす。さらりと揺れた綺麗な髪に、木漏れ日がきらきらと光っている。

 目の前に差し出された白い手を、僕はわずかに胸を高鳴らせながら見つめていた。

 この手を、取っていいのだろうか?

「ほら、行こっ。迷ってると日が暮れちゃうよ」

 そう言って、彼女は僕の左手を両手で掴み、ぐっと引っ張ってその場に立たせる。
 触れた箇所から、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
 そうして彼女に導かれるまま、僕らは神社の出口である鳥居の方まで駆けていった。
 
 
          ◯


 捜す、とはいったものの、しかし一体どこから捜せばいいのかわからなかった。
 カミサマのことも、あのお姉さんのことも、あの神社以外に関係がありそうな場所なんて皆目見当がつかない。

「とりあえず、町をぐるっと回ってみる? 私、まだこの辺りのことをよく知らないし、できれば刀坂くんに案内してほしいなぁ」

 鏡宮はおねだりするように、胸の前で手を合わせて言った。クラスの男子たちが見たら即刻鼻の下を伸ばしてしまいそうな微笑み。あの人気者の榊くんでさえ、彼女の笑顔には弱いのだ。

 そんな彼女のリクエストに応える形で、僕らは自分たちの住む町の外周を回ってみることにした。

 僕らの町は、はっきり言ってド田舎だった。
 のどかな田園風景が広がる土地、といえば聞こえはいいけれど、家の周りは畑と田んぼばかりで、高校生が楽しく過ごせそうな場所はほとんどない。地元の同級生たちは皆、休日になると電車に乗って遠くまで遊びにいく。

 ただ、自然豊かなこの風景は、人によっては心のオアシスになるかもしれない。
 道を歩けば至るところにタンポポやシロツメクサなんかが花を咲かせているし、公園の木を見上げれば藤の花が下がっていたりする。
 鏡宮はそれらを愛おしそうに眺め、小枝にとまったスズメやメジロに「可愛い!」と目を輝かせる。そうしている間にも、どこか遠くではウグイスが「ホーホケキョ」の練習をしている。

「中学の時は、隣の新興住宅地と学区が同じだったんだよ。僕らの住んでる辺りは、子どもの数が年々減ってるらしくて」

 限界集落、とまではいかないものの、その一歩手前ぐらいにあるのが現状だった。
 いずれ僕らも大人になったら、この町の外へ働きに出ていく可能性が高い。

「隣の新興住宅地……って、あの山の上に見えてる所だよね?」

 鏡宮はそう言って、東の方角に見える山へと目をやった。視線の先で、青々とした山の上にマンションらしき建物の屋根が見えている。

「うん。あの上に僕の通ってた中学もあるんだ」

「そっか。じゃあ、そっちの方にもまた行ってみたいなぁ。今日はもう日が暮れちゃうし、続きは明日にする?」

 彼女の言う通り、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
 結局その日はカミサマを見つけることもできず、あのお姉さんに関しても何の収穫もなかった。

 明日から世間はゴールデンウィークに入る。僕らの高校も例に漏れず、連休に突入する。
 もし明日もこうして彼女と会うとなると、それはいつもの放課後のルーティンではなく、休日に会う約束をするということになる。

「明日……って、鏡宮はゴールデンウィークの予定とかはないの? 友達と遊ぶ約束とか、家族で旅行とか」

「うん、明日は大丈夫! 刀坂くんも明日は空いてる?」

「まあ……」

 聞かれるまでもない。
 僕には友達がいないので、誰かと遊びに出掛けることなんて天地がひっくり返ってもない。
 それに両親は共働きで、家族でゆっくりすることはほとんどない。世間が連休に入っても忙しなく仕事へ向かうので、家族旅行なんていうのももうずいぶんと長いこと行っていない気がする。

「それじゃ、明日も一緒に冒険しようよ。刀坂くんの通ってた中学校も見てみたいし」

 ねっ、といつもの笑顔を向けてくる鏡宮。
 中学校なんて、僕にとっては何の思い入れもないのだけれど。それでも、彼女がこんなに楽しそうに話すのを見ていると、とりあえず案内してあげようかな、なんて思う。

「明日も楽しみにしてるね! ……って、なんだかこれ、デートの約束みたいだね?」

「でっ……」

 彼女がいきなりそんなことを言うものだから、僕は思わず言葉に詰まった。
 ふふ、とイタズラっぽく笑った彼女は確信犯だったのだろうか。

 なんだか彼女の手のひらの上で転がされている気がする。
 けれど、その感覚は不思議と嫌ではなかった。
 
 
          ◯


 そして翌日。
 僕らはいつもの神社で朝九時に集合した。

「おはよー、刀坂くん! 今日も冒険の始まりだね!」

 木漏れ日の降る境内の真ん中で、彼女は嬉しそうな笑顔を見せる。
 私服姿の彼女は、動きやすそうなショートパンツに、Tシャツの上から大きめのアウターと、頭にはキャップを被っていた。長距離を歩くことを見越した装いのようだったが、元が良い彼女は何を着ても似合う。

 対する僕は、家にあった適当なパーカーとデニムを合わせただけ。
 こうして女の子と二人で出掛けるなら、もう少しファッションに気を遣った方が良かったのだろうか。なんて、今さら思案する僕の不安を払い除けるかのように、

「えへへ。制服以外の格好してる刀坂くんって新鮮だね。そのパーカーも似合ってるよ!」

 と、まさかの褒め言葉を投げかけられる。
 鏡宮からすれば何てことない、挨拶代わりのようなセリフだったのかもしれないが、言われた僕は悪い気はしなかった。
 キミの服装も似合ってるよ、と僕も軽く返せたら良かったのに、そういうやり取りに慣れていない僕はもじもじと視線を逸らすだけで精一杯だった。

「うーん。やっぱり今日もいないね、カミサマ」

 鏡宮は改めて境内を見渡して言った。
 社殿の脇や木々の間を確認しても、カミサマの姿はどこにもない。
 無論、あのお姉さんがここへ帰ってくる気配もない。
 鬱蒼と生い茂る木々がざわざわと風に揺れる中、鏡宮の明るい声だけが再び響く。

「それじゃ、さっそく出発しよっか。今日も案内は刀坂くんにお任せするね」

 そう言って、彼女は当たり前のように僕の左腕を掴んで、引っ張るようにして歩き出す。
 町を案内するのは僕だけれど、こうして僕を神社から連れ出してくれるのは鏡宮の役目だった。
 

          ◯


 あれだけ人と関わることを避けていた僕が、休日に女の子と二人で出掛けようとしている。
 そう思うと、なんだか不思議な気分だった。

 川の上に架かる橋を渡り、私鉄の踏切を越えると、やがて民家と民家との間に細い坂道が見えてくる。
 そこを上ると、僕の通っていた中学校まではすぐだった。登下校の時間帯はいつも、この道は制服を着た生徒や走り込みをする運動部員たちの姿でいっぱいになる。

「あっ。猫ちゃんがいる!」

 不意に鏡宮が声を弾ませて、僕もハッとそちらを見た。
 コンクリートで舗装された坂道の途中に、細長い尻尾を持つふわふわの生き物が寝そべっている。よくよく見てみると、それはあのボサボサの白猫ではなく、白、黒、茶のふわふわの毛並みを持った三毛猫だった。

「かわいー! 三毛猫ちゃんだね。ちょっと太ってるかな?」

 鏡宮が近づいていっても、三毛猫は逃げなかった。恰幅の良い体を斜めに横たえたまま、じっと彼女を見つめている。

「この猫ちゃん、すっごく人慣れしてるね。触っても全然逃げないよ?」

 鏡宮は嬉しそうに猫の頭を撫でる。
 猫は逃げるどころか、体をさらにひっくり返らせて白いお腹をみせつけてくる。ゴロゴロと喉を鳴らすその様子は、「もっと撫でろ」と言っているようだった。

「この子、野良猫ちゃんかな? だとしたら、この地域の人たちに愛されてるんだろうね。体も丸々として毛艶も良いし、美味しいごはんをたくさんもらってるみたい。刀坂くんも触ってみる?」

 促されて、僕も鏡宮の隣にしゃがみ込み、そっと手を伸ばしてみる。すると三毛猫はさっきと同じようにお腹を上に向けてゴロゴロと喉を鳴らした。
 くそ、可愛いなこいつ。

「……って、こんな所で油を売ってる場合じゃなかった」

 気づけば結構な時間を費やしてしまった。
 まだ目当ての新興住宅地に入る手前だというのに、まさかこんな誘惑に引っかかるとは。

「ふふふ。猫ちゃんの魅力には敵わないよね。じゃあね、三毛猫ちゃん。帰りもまた会えたらいいなぁ」

 名残惜しいが、僕らは前に進まねばならない。
 人懐こい三毛猫に別れを告げ、僕らはいよいよ隣の町へと足を踏み入れた。
 
 
          ◯


 新興住宅地の中は、本当に何の変哲もない住宅街だった。
 およそ二、三十年前に建てられたであろう一軒家の群れが、それぞれリフォームしたりしなかったりで仲良く軒を連ねている。

 僕の通っていた中学校の前を通ると、だだっ広いグラウンドには野球部の練習風景がフェンス越しに見えた。奥の方では陸上部がストレッチしている様子も確認できる。

「刀坂くんも、中学のときはこんな感じだったんだねー」

「いや、僕は帰宅部だったから……部活とかは全然」

「でも体操服はあれを着てたんでしょ? そう考えると、なんだか面白いね!」

 面白いか? と疑問を抱きつつも、鏡宮が楽しそうにしているからまあいいか、と思う。

 そうこうしているうちに、時刻はいつのまにか正午を回っていた。
 結局、カミサマの姿は未だどこにも見えず、例のお姉さんについては手掛かりの掴み方すらわからない。

「私、ちょっとお腹空いてきちゃったかも……」

「近くにコンビニがあるから寄る? それとも、どこかお店に入って食べようか」

 そう提案してみたものの、こういう時、普通はどうするのが正解なのだろう?
 友達のいない僕には、こういう場面での流れが全く想像できない。

 女性をエスコートするのに慣れている男性なら、すでにどこかのお店を予約していたりするものなのだろうか。……なんて考えてみたけれど、さすがにそれはないか、と思い直す。そもそもこんなド田舎では予約できるような店自体がない。

 でも、これがもし榊くんだったら。
 クラスの人気者である彼なら、こんな時はどうするのだろう——と、あれこれ頭を巡らせている内に、

「あっ。あそこにカフェがあるよ!」

 と、鏡宮が何やら良さげな店を見つけていた。
 彼女の指差す先に、ブラックボードの看板が出ていた。カラフルなペンで書かれた文字の横には、可愛らしい猫のイラストも添えられている。

「わっ。このお店、猫ちゃんがいるんだって!」

 ボードの注意書きに、店内には猫がいる旨が記されている。それに気づいた瞬間、鏡宮の目の色が変わった。

「ねえ刀坂くん。どう? ここに入ってみない!?」

 彼女はキラキラと瞳を輝かせながらこちらに尋ねる。
 そんな顔をされると、断る選択肢なんてあるはずがない。

「うん。そうしようか」

 そう返事をしてから、改めて目の前の店を眺める。
 住宅街の一角にある、一見普通の家にも見えるカフェ。おそらくは一階がお店になっていて、二階が居住空間になっているのだろう。

 テンションがマックスにまで上がっている鏡宮は、軽い足取りで入口の扉へと近づいていく。
 その様子を見ていると、本当に猫が好きなんだな、と思う。

 彼女がそっと扉を開けると、上部に取り付けられたアンティーク調のドアベルがカランカランと音を立てた。
 
 
「いらっしゃいませー」

 僕らが入店すると、店の奥から若い女性の声が届いた。猫柄のエプロンを着た一人の店員がこちらへ歩み寄ってくる。

「何名様ですか?」

 アルバイトらしきその女性は、僕らと同じ高校生くらいの年齢に見える。いや、もしかしたら中学生かもしれない。
 家のお手伝いをしているのだろうか。慣れた様子で客を案内する姿は様になっているが、その顔は笑顔のカケラもない、常に仏頂面だった。

 店内にはカウンター席が四つとテーブル席が三つ。今はテーブル席に二組が腰掛けている。

「あっ。いたいた。猫ちゃん!」

 鏡宮が目を輝かせて見つめる先には、一匹の黒猫がいた。首に赤いリボンと鈴がついたその猫は、カウンター席を一つ陣取って香箱座りをしている。

「カウンターの方がよろしいですか?」

 店員の少女が聞いた。鏡宮の猫好きが伝わったのだろう。鏡宮は大いに何度も頷いて、僕らはそちらへ向かう。
 黒猫を挟んで、左の席に鏡宮、右に僕が座った。

「猫ちゃん、触っても大丈夫ですか?」

「どうぞ」

 店員の少女が水を用意している間に、鏡宮は黒猫の毛並みを堪能する。かなり人慣れしているようで、触っても逃げる素振りは見せず、むしろ気持ちよさそうに目を瞑っている。

「ふふ。大人しくて可愛い。名前は何ていうのかなぁ?」

 ほぼ独り言のように呟いた鏡宮の声に、

「『店長』です」

 と、すかさず店員の少女が答える。
 どうやら猫の名前は『店長』というらしい。

 近頃は店の看板猫として、表向きは店長とされている猫が世に増えてきている印象だが、『店長』がそのまま名前に採用されている例は珍しいかもしれない。
 まあ、『カミサマ』と良い勝負だと思うけど。

「へえー。キミ、店長っていうんだね! お痒いところはございませんか、店長?」

 店長は返事をする代わりに、鏡宮の方へ顔を向けてゆっくりと(まばた)きした。

「あっ、いま瞬きしてくれた! ねえ刀坂くん知ってる? 猫ちゃんと目を合わせてお互いに瞬きするとね、『友達』になれるんだよ」

「うん。それより鏡宮、先にメニューを決めないと」

 僕が促すと、鏡宮は「あ、そうだった!」と慌ててメニュー表を手に取る。どうやら猫に夢中になりすぎて本当に忘れていたらしい。

 僕はクラブサンドとコーヒー、鏡宮はおかず系のパンケーキとミルクティーを注文した。
 厨房の奥には五、六十代くらいの男性がいて、一人で料理を作っている。ウェイターの少女と同じく仏頂面で、もくもくと作業を続ける様子はちょっと怖い。少女の父親か、あるいは祖父だろうか。

「それで、この後はどうしよっか?」

 鏡宮が言った。
 僕は水を飲みながら、ぼんやりとこれからのことを考える。

 このままアテもなく町を彷徨ったところで、カミサマは見つからないかもしれない。
 それに、あのお姉さんのことに関しては何の情報も得られない可能性が限りなく高い。
 何か、彼らを捜し出すための指標のようなものがあればいいのに、と思う。

「このままただ歩いてるだけじゃ見つけるのは難しそうだし、周りの人に聞き込みとかしてみる?」

 聞き込み。
 鏡宮の口にしたそれは、僕にとってはかなりハードルの高い提案だった。ただでさえ人と関わることを避けてきた僕が、見知らぬ人々にいきなり声をかけるだなんて。

「それは……。カミサマはともかく、あのお姉さんのことも聞いて回るってこと? 説明が難しそうだけど……」

 気の進まない僕はそれとなく消極的な態度を示すが、鏡宮はそんな僕の胸中には気づかない様子で話を進めていく。

「お姉さんの見た目の特徴とか、何かない? 背丈とか髪型とか、どこかにホクロがあるとか」

「特徴って言っても……もう十年も前のことだし、僕もほとんど覚えてないよ。それに、あの人が今もどこかで生きているのか、それともこの世から完全に消えてしまったのか……それすらわからない状態だと、どう聞き込みすればいいのかわからないし」

「あ、そっか。お姉さんが今も存在してるならもう大人になってるだろうし、そうじゃないなら子どものままってこと? 確かに難しいね」

 うーん、と考え込む鏡宮の横から、

「あの」

 と、店員の少女が声をかけてきた。
 
 
「もしかして、オカルトっぽい話をしてます?」

 少女はクラブサンドが載った皿を僕の前に置きながら聞いた。

「え。オカルト……?」

 いきなり予想外の質問を投げかけられて、僕は思わず少女の顔を見上げた。
 赤縁眼鏡のレンズ越しに、切れ長の瞳がこちらを見下ろしていた。相変わらずにこりともしないその顔は、どこか冷ややかな印象がある。

「神様がどうとか、人が消えたとか話してましたよね。オカルト系の話じゃないんですか?」

「あ、いや、その……」

 再び質問を投げかけられて、僕は返事に詰まった。
 あのお姉さんのことについて、何の関係もない赤の他人から詮索されるのは避けたい。
 さてどう答えたものかと悩む僕の隣から、

「うーん。オカルト……なのかなぁ? 確かに、人が急に消えちゃったっていうのは超常現象っぽい感じかもしれないね?」

 と、鏡宮が普通に答えようとしたので、「ちょっと、鏡宮」と慌てて制止する。

「人が急に消えた? それって、神隠しってことですか?」

 少女の眼鏡の奥に見える瞳が、すっと細められる。

 神隠し。
 彼女の口から発せられたそのワードに、僕はどきりとした。

 十年前、あのお姉さんはある日突然姿を消した。
 その現象に名前があるかどうかなんて今まで考えたこともなかったけれど、これはいわゆる『神隠し』と呼ばれるものなのだろうか。

「よかったらその話、詳しく聞かせてもらえませんか? 私、そういう類の知識はある方なので」

 まさかの申し出に、僕は面食らった。
 そういう類の知識って何だよ——と不審がる僕には構わず、隣の鏡宮は嬉しそうに声を弾ませる。

「ねえ、話してみようよ刀坂くん。何か有力な情報を教えてもらえるかも!」

 楽観的な彼女を見て、僕はますます頭を抱える。
 何やら知識があると豪語するこの眼鏡少女は、つまるところオカルト系の話が好きなだけではないのか?

「おい和泉(いずみ)。早く持ってってくれ」

 と、今度は厨房の方から低い声が届く。見ると、料理を作り終えた男性が待ちくたびれたように少女を睨んでいた。

「わかってるって、じっちゃん。いまイイところだったのに」

 そう言って、仏頂面から膨れっ面に変化した少女は、面白くなさそうに僕らの席から離れていった。


          ◯


「わぁー! おいしそう!」

 やがて運ばれてきたパンケーキを見るなり、鏡宮は目を輝かせた。
 出来立てふわふわのパンケーキの上にはベーコンとポーチドエッグが載せられ、その横には色鮮やかなサラダが添えられている。どうやら『エッグベネディクト』なる名前らしいが、世間に疎い僕は初耳だった。
 スマホのカメラでしっかり写真に納めてから、彼女はようやく料理を口に運ぶ。

「うーん! おいしいー!」

 心の底から幸せそうな顔をする鏡宮を見て、僕も思わず笑みが漏れる。
 猫に釣られてたまたま入った店だったけれど、どうやら料理の味も気に入ってくれたようだ。
 
 
「気に入ってもらえたようで何よりです」

 と、そこへ聞き覚えのある声が届く。
 僕と鏡宮が同時に顔を上げると、カウンターのすぐ向こう側から、先ほどの店員の少女が相変わらずの仏頂面でこちらを見つめていた。

「あなた、どこかで見たことがあると思ってましたけど、転校生の鏡宮那智さんですよね」

「えっ」

 不意打ちでフルネームを言い当てられて、鏡宮は目を丸くさせた。隣の僕も、これには驚きを隠せない。

「ど、どうして私のことを知ってるの?」

「そりゃあ知ってますよ。うちの学年でも噂になってますからね。二年生のクラスに美人な転校生が来たって」

 どうやらこの少女も、僕らと同じ神木高校に通っているらしい。聞けば学年は一年生だというので、僕らの一つ後輩である。名前は玉木(たまき)和泉(いずみ)

 学年の違う彼女ですら、鏡宮の噂は当たり前のように知っていた。
 確かに鏡宮が可愛いのは周知の事実であるし、男子たちからモテるのもわかっている。けれど、まさかここまでとは。

「で、隣のあなたは()()()の刀坂先輩ですよね」

 間違いない。
 万年クラスで浮いている僕こと刀坂社は、どうやら孤独な生徒として他の学年からも認知されているようだった。

「意外な組み合わせでびっくりしてます。まさかとは思いますけど、お二人は付き合ってるんですか?」

「つっ……!?」

 まさかの言葉が躍り出て、僕は目を剥く。

「ふふふ。付き合ってるわけじゃないよー」

 鏡宮は笑顔のままそう否定したが、彼女もいきなりの指摘にびっくりしたのか、ほんのりと頬が赤くなっていた。

「でしょうね。さすがに釣り合わないと思うので」

 言い返す言葉もない。
 これだけ人気者の鏡宮と、友達のいない僕とでは生きる世界が違いすぎる。

「それで、さっきの神隠しの話ですけど。私、オカルト研究同好会に所属してるんです。オカルト系のことにはそこそこ詳しいので、何か悩んでいるのでしたら力になれるかもしれません」

 オカルト研究同好会。
 どうやら神木高校内にある同好会らしいが、そんなものがあったとは。部活に興味のない僕は存在すら知らなかった。

「へぇー、オカルト研究! なんだかすごいね。ねぇ刀坂くん、やっぱり玉木さんに相談してみない? あのお姉さんのこと」

 鏡宮は嬉しそうにこちらの顔を覗き込んでくる。
 けれど僕は、

「いや……」

 正直、気が進まなかった。
 だって、あのお姉さんのことはオカルトとか、そんな安易なジャンルで一括りにしてほしくなかったから。

「同好会って、つまりはオカルト好きな人たちの集まりだよね? 人の不思議体験をネタにして、面白がってるってことでしょ。だとしたら僕は、悪いけどキミとは話したくないよ。僕のこれは、遊び半分で聞いてほしいわけじゃないんだ」

 僕が感じたままのことを包み隠さずに言うと、途端に鏡宮は気まずそうな顔になる。
 けれど当の玉木は、特に動揺した様子もなく普段通りの仏頂面で言う。

「まあ、言われてみればそうですね。人の体験談をネタにしているっていうのは否定できません。ただ——」

 彼女はそこで一度切ると、椅子の上で丸くなっていた黒猫、店長に目をやった。
 店長は何かを感じ取ったかのようにふっと顔を上げると、おもむろに体を起こしてカウンターの上に飛び乗る。

「刀坂先輩って、あの廃神社によく通ってますよね」

「え……」

 廃神社。
 そのワードで真っ先に思い出したのは、あの神社だった。僕がいつも放課後に向かう、カミサマの根城。

 玉木は店長の黒い背中を撫でながら続ける。

「同好会の先輩たちが何度かあそこに行ったみたいなんですけど、いつ覗いても刀坂先輩がそこにいるって噂になってたんですよ。私も一度だけ連れて行ってもらいましたが、その時も確かにあなたの姿を確認しました」

 どうやら見られていたらしい。
 あそこに滞在している間は特にひと気は感じなかったのだが、遠くから観察されていたのか。

 あんな寂れた場所で、毎日のように猫と戯れている孤独な男子生徒。一体どれだけ残念な人間として見られていたのだろう。玉木が『ぼっちの刀坂先輩』として認識していたのも、そういう経緯があったのか。

「先ほどあなた方が言っていた神隠しの件が、あの神社と関係しているのかどうかはわかりませんけれど、一応忠告だけはしておきますね。廃神社というのは危険ですよ。祀られていた神様がいなくなり、神の加護を失った神域には、悪いモノが集まりやすいんです」

 悪いモノ。神の加護。
 さすがはオカルト研究同好会のメンバーだけあって、スピリチュアルな発言をさらりと言ってのける。
 僕はどう受け止めていいものかわからず軽く聞き流そうとしたが、それを咎めるかのように、目の前の店長が「んなー」と低い声で鳴いた。

「あなたがどういうつもりであの場所を訪れているのかは知りませんが、あまり関わりすぎると(たた)られますよ。下手をすれば、あなた自身も()()()()()()()かもしれません。それだけは肝に銘じておいてください」
 
 
          ◯


 夕暮れ時の帰り道。
 新興住宅地から山を下りていくための坂道に差し掛かると、鏡宮はしきりに辺りを見回していた。

「あの三毛猫ちゃん、まだいるかなー? もう寝床に帰っちゃったかな?」

 今朝ここで会った、人懐こい三毛猫。警戒心ゼロで白いお腹を見せつけてきたあの猫に、鏡宮はご執心のようだ。

 彼女が楽しそうに猫を探している間も、僕は昼間の玉木との会話を何度も思い返していた。

 ——廃神社というのは危険ですよ。

 あの神社は危険だ、と彼女は言っていた。
 誰も管理することのない寂れた神社には、何か霊的な悪いモノが集まりやすいのだと。

 ——あなた自身も連れていかれるかもしれません。

 無闇に悪いモノに干渉すれば、僕も連れていかれるかもしれない、と言っていた。
 それはあたかも、あのお姉さんが何か悪いモノの祟りにでも遭ったかのような言い回しだった。

「ねえ刀坂くん。聞いてる?」

 その声で我に返った僕は、思わず目を(しばたた)く。
 いつのまにか、すぐ目の前に鏡宮の不思議そうにしている顔があった。

「わっ! ちょっと。だから近いって」

 相変わらず距離感のおかしい彼女に、僕は後ろへ飛び退く。

「大丈夫? なんだか顔色が悪いけど……。やっぱりまだ、玉木さんに言われたことを気にしてるの?」
 
 図星だった。
 そんなに表情に出ていたのかと情けなくなる。今まで友達がいなかったせいで気づけなかったけれど、僕は感情が顔に出るタイプだったのか。

「その……。鏡宮はさ、どう思う? あのお姉さんが消えた理由って、玉木が言ってたみたいに、本当に何か悪いモノに連れていかれたんだと思う?」

 我ながら妙な話をしているな、と思った。
 悪いモノ、だなんて。そんな訳の分からないモノを引き合いに出したところで、あのお姉さんの居場所がわかるはずなどないのに。

「うーん。私は霊感とかそういうのは無いから、よくわからないけど……」

 鏡宮はぼんやりとオレンジ色の空を見上げながら、「でもね」と、わずかにその瞳を細めて言う。

「神様とか幽霊とか、たとえ人じゃなくても、憶測で誰かを悪者にしようとするのは良くないと思うの」

 そんな彼女の思いに、僕はハッと気づかされる。
 誰かを悪者にする。憶測で犯人を決めつける。それはかつて、鏡宮が前の学校で受けた冷たい仕打ちだった。

「それにね。私、あの神社にはまだ神様がいるんじゃないかなって思うの」

 彼女は再びこちらに視線を下ろして、ふわりと笑みを浮かべて言う。
 どういうこと? と僕が聞き返そうとしたとき、彼女はふと道の先に目を向けて、「わぁー!」と嬉しそうに顔を綻ばせた。

「すごい。絶景だよ、刀坂くん。綺麗な夕日!」

 釣られて僕も見ると、視線の先で、地平線に太陽が沈もうとしていた。
 大気をオレンジ色に染めた空に、紫色の雲がまばらに浮かんでいる。
 坂道の上から見下ろした景色は、夕闇に暮れていく僕らの町を一望できた。