「今日もいないね、あの猫ちゃん」

 昼間でも薄暗い境内を見渡して、鏡宮は残念そうに言った。

 山の陰にひっそりと存在する、いつもの神社。そこを根城にしているあのボサボサの白猫。
 この十年間、僕はほぼ毎日のようにここを訪れていたけれど、その白猫——カミサマの姿を見ない日はなかった。

 それがここ数日、カミサマはぱったりと僕らの前に現れなくなってしまった。試しに名前を呼んでみても、今は鳴き声一つ聞こえてこない。

「せっかく煮干しも残したのにな」

 僕は拝殿の段差に腰を下ろすと、昼に残しておいた煮干しを取り出して口へ放り込んだ。
 隣に座った鏡宮にも「食べる?」と聞くと、彼女は少しだけ考えた後に「うん」と頷いて、受け取ったそれをポリポリとハムスターのように齧る。

 こうして彼女と二人、放課後にここを訪れるのはもはや日課となりつつあった。
 僕がずっと待ち焦がれているあのお姉さんの帰りを、鏡宮も一緒になって待ってくれている。

 鏡宮が転校してきてから、すでに一週間ほどが経過していた。
 僕は相変わらずクラスで浮いているけれど、鏡宮はなんとか少人数の女子グループに入ることができたようだ。メンバーは比較的おとなしいタイプの子が多くて、他愛もない会話をしながら穏やかに過ごすことができている。

 そして、以前鏡宮のことで陰口を叩いていた例の女子グループは、今や教室の隅に追いやられてしまっていた。僕らのクラスはどうやら常識人が多いようで、風紀を乱す生徒にはあからさまに白い目が向けられる。
 といっても、当の鏡宮はもはや気にしていない様子だけれど。

「猫ちゃん、本当にどこに行っちゃったんだろ。……心配だね」

 元気でいてくれたらいいけど——と、彼女は心細げな声を漏らす。

「まあ、そのうちひょっこり帰ってくるんじゃない?」

 僕はわざと軽い口調で言った。
 あのカミサマのことである。心配させるだけさせておいて、数日後にはまるで何事もなかったかのように戻ってくるかもしれない。

 とはいっても正直なところ、不安を拭うことはできなかった。
 カミサマの年齢ははっきりとはわからないが、少なくとも十歳以上であることは確定している。見た目もあれだし、そろそろ老衰でぽっくり逝ってしまってもおかしくはない。

「私、探しにいってみようかな。あの猫ちゃんのこと」

「え?」

 鏡宮は急に思い立ったように言って、その場に立ち上がった。

「もしかしたら、他においしい食べ物をくれる人がいて、そっちに縄張りを移しちゃったのかも」

 餌に釣られて、棲み家を移した。
 あれだけ食い意地の張っているカミサマなら有り得なくもない。

「どこかで元気にしてくれていたらそれでいいけど、姿が見えないままじゃ心配になるし。私、あの子を探しに行くよ。刀坂くんはどうする?」

「え、僕?」

 唐突に振られて、僕は反応に困った。

「いや、僕は……あのお姉さんのことをここで待っていたいし」

「でも刀坂くん、ここで十年もそのお姉さんのことを待ってるんだよね? 待つだけじゃなくて、自分から捜しに行くっていうのも有効な手段かもしれないよ。刀坂くんが動くことで、もしかしたら何か手掛かりが掴めるかもしれないし」

 そう言われて初めて、僕はその可能性を見出す。

 あのお姉さんのことを、僕が自ら捜しに行く。
 今まで考えたこともなかった。
 だって、僕の思い出の中にいる彼女は、この神社の境内でしか会うことはできなかったのだから。

「あの猫ちゃんのことも、お姉さんのことも、一緒に捜しにいこうよ」

 ねっ、と小首を傾げながら、彼女はこちらへ手を伸ばす。さらりと揺れた綺麗な髪に、木漏れ日がきらきらと光っている。

 目の前に差し出された白い手を、僕はわずかに胸を高鳴らせながら見つめていた。

 この手を、取っていいのだろうか?

「ほら、行こっ。迷ってると日が暮れちゃうよ」

 そう言って、彼女は僕の左手を両手で掴み、ぐっと引っ張ってその場に立たせる。
 触れた箇所から、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
 そうして彼女に導かれるまま、僕らは神社の出口である鳥居の方まで駆けていった。