むかし、僕には友達がいた。
年の離れたお姉さんだった。
年齢は定かではないけれど、地元の中学のセーラー服を着ていたので、おそらく中学生だったのだと思う。
当時の僕はまだ小学校に上がったばかりで、七歳だった。
引っ込み思案な僕は学校でうまく人の輪に溶け込めず、放課後になるといつも一人で近所の神社へと向かった。
そこで待っていたのが、あのお姉さんだった。
——こんにちは、社くん。今日は何をして遊ぶ?
長い黒髪をさらりと揺らして、彼女はこちらの目線に合わせてくれる。スカートの裾が土に汚れるのにも構わず、境内の真ん中にしゃがみ込んで、俯きがちな僕の顔を覗き込んでくれる。
優しい微笑を浮かべた彼女は、とても綺麗だった。顔はもうほとんど思い出せないけれど、彼女の笑顔が好きだった、という気持ちだけははっきりと記憶している。
彼女の存在は、僕にとっての安らぎだった。
二人で一緒にかくれんぼをしたり、だるまさんがころんだをして遊ぶのが好きだった。
時々遊びすぎて帰りが遅くなると、僕の親が怒って迎えに来ることもあった。
——うちの息子がごめんなさいね。いつも相手をしてくれてありがとうね。
母が頭を下げると、彼女は困ったように笑っていた。
——いえ。私も社くんと一緒に遊べて楽しいので。こちらこそ、ありがとうございます。
いま思えば、彼女もまた僕と同じで孤独な人だったのかもしれない。
いや、むしろ。
誰にも迎えに来てさえもらえない彼女は、僕以上に寂しい思いをしていたのかもしれない。
どちらにせよ、今となってはもう、真実を探ることはできない。
彼女はある日を境に、忽然と姿を現さなくなってしまったのだ。
——社。またここにいたのね。こんな所で何をしてるの。早く帰るわよ。
夕闇に染まっていく境内でうずくまっていると、やがて母が迎えにきた。
僕はどうしてもあのお姉さんに会いたくて、毎日そこで彼女の訪れを待っていた。
——……あのおねえちゃん、どこにいっちゃったのかな。
母に手を引かれながらポツリと呟くと、それを聞いた母は不思議そうな顔をして、
——お姉ちゃんって、誰のこと?
まるで見当も付かないといった風に、そんなことを言った。
僕はびっくりして、半ば噛みつくようにして反論した。
——おねえちゃんは、おねえちゃんだよ。おかあさんだって、ここで何度も会ったでしょ?
——なに寝ぼけたことを言ってるの。こんな寂れた神社に、人なんて滅多に来るわけがないでしょ。
僕がいくら食い下がっても、母は相手にしなかった。意地悪や冗談を言っている様子は一切なく、あのお姉さんの存在そのものを完全に忘れてしまっているようだった。
その後も何度もあの神社へ足を運んでみたけれど、彼女と再会することはついぞ叶わなかった。
それでも諦めきれない僕を見兼ねて、
——夢でも見たんじゃないのか?
と、父は呆れた風に言った。
——子どもの頃の記憶ってのは曖昧だからな。現実と願望とがごっちゃになってるんだろう。
あたかも僕の記憶が間違いであるかのような口ぶりだった。
そういう父も、過去にはあのお姉さんと顔を合わせたことがあったはずだった。母の代わりに僕を迎えにきた時、お互いに挨拶を交わしていたのを覚えている。
なのに、どうして……。
母だけではなく父まで。二人そろって、彼女のことを完全に忘れてしまっているようだった。
そんな彼らを見て、僕はいよいよ事の重大さに気づく。
もしかしたら彼女は、あの場所へただ来なくなっただけではなく、その存在ごと、この世界からきれいさっぱり消えてしまったのではないかと。
彼女がいなくなった後も、世界はまるで何事もなかったかのように続いた。
僕の身体は少しずつ大人へと近づき、次第に、彼女と過ごした時間は遠い過去のものとなっていく。
段々とおぼろげになっていく記憶の中で、彼女を失った事実だけがまるでしこりのように、僕の胸に居座り続けた。
僕だけはこんなにも覚えているのに。
あの頃の思い出だけを残して、彼女の存在を証明するものは、他に何一つとしてなかったのだ。
あれから、十年の月日が流れた。
当時七歳だった僕も今では高校二年生になり、身長もそれなりに伸びて、見た目だけでいえば大人への仲間入りも目前である。
けれど、心はずっとあの頃に囚われたまま。
僕は今でも、あのお姉さんの帰りを待ち続けている。
◯
「お前さぁ。いっつもノリ悪いよな」
まだクラスメイトたちも残っている教室で、そんなことを言われた。
放課後の、掃除の時間。僕がホウキで床を掃いていると、男子の一人が珍しく声を掛けてきた。これから皆でカラオケに行くけど一緒に来るか、という誘いだった。
誘ってもらえたこと自体は素直に嬉しかったけれど、僕は断った。
放課後はいつも、あの場所に行くと決めている。
「まあ、別に強制じゃないけどさ。たまには他の奴らとも仲良くしろよ。お前、クラスの中で浮いてるぞ」
そう言う彼はクラスの人気者で、いつも人の輪の中心にいるような人物だった。名前は確か、榊くん。
こうして僕に話しかけてくれるのも、この教室ではもはや彼くらいしかいない。
彼の言う通り、僕はクラスで浮いている。休み時間はほとんど一人で読書をしているし、部活にも入らず、休日に誰かと遊ぶ約束もしない。
高校生になって、二度目の春。
四月もそろそろ終盤に差し掛かっているが、僕には友達と呼べるような存在は一人もいなかった。
いない、というよりは、作らなかったと言った方が正しいのかもしれない。
榊くんのように、僕に話しかけてくれる人は今までに何人もいた。教室の隅っこで寂しそうにしている僕のことを、心配そうに気にかけてくれるクラスメイトたち。
その優しさを無碍にして、自ら孤独の道を選んだのは他でもない僕自身だった。
友達が欲しいと思ったことは、幼い頃なら確かにあった。
仲良しグループを作って、毎日一緒に遊べたらどれだけ楽しいだろうかと想像した。
けれどいつしか、そんな願望は僕の中から消えていった。
だって、たとえ誰かと仲良くなれたところで、またあのお姉さんのように突然僕の前から消えてしまうかもしれない。
そう思うと、僕はとても友達なんて作る気にはなれなかった。
大事なものは、失ったときが一番悲しい。
なら最初からそんなものを作らなければいいのだ。
いつか失ってしまうかもしれないという不安を抱えるくらいなら、最初から何も持たない方がずっとマシだと思う。それがどれだけ孤独な生き方だったとしても。
「じゃあな、刀坂。次は参加しろよ」
人の輪の中へ戻っていく榊くんの背中を、遠く見つめる。
クラスメイトたちの楽しそうな笑い声が教室中に響いている。
眩しくて仕方のないその光景に目を細めながら、僕はひとり「ごめんね」と小さく呟く。
そうして掃除用具を片付けると、人知れず教室を後にした。
◯
学校の帰りにいつも向かうのは、自宅の近くにある寂れた神社だった。
あのお姉さんと一緒に遊んだ思い出の場所。ここで彼女の帰りを待ち続けるのが、僕の日課だった。
田畑と民家とが交互に並ぶ、田舎道の途中。私鉄の沿線に見える小高い山の入口に、色褪せた赤い鳥居がぽつんと建っている。
山の陰にひっそりと存在するその鳥居を潜ると、奥にはこぢんまりとした境内が広がっている。ちょうど学校の教室と同じくらいの広さだ。
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれたそこは日中でも常に薄暗く、手入れのされていない足元は落ち葉と雑草とに埋め尽くされていた。
幸い今日は天気が良いので、木々の隙間から木漏れ日ぐらいなら降ってくる。
僕が歩を進める度、足元ではパキ、と小枝の折れる音がする。そうして十歩も歩いたかどうかといったところで、正面奥に建つ社殿の前まで辿り着いた。
本殿と拝殿とが一体になった、奥行きのある建物だった。後ろの方は木々の陰に隠れて見えない。
いつの時代に建てられたのかもわからない木造のそれは老朽化が進み、格子戸のガラスは割れ放題になっていた。
おそらくはもう何年も手入れされていないのだろう。僕は小さい頃からここに通っているけれど、宮司や巫女の姿は今まで一度だって見たことがないし、管理者らしき人物が出入りしている様子もなかった。
参拝客だって、もはや僕ぐらいしかいないのではないだろうか。少なくとも僕がここに滞在している間に、他の誰かが訪ねてくるようなことは全くと言っていいほどなかった。
ただ、人間に限らなければ、先客はいつだって居るものだ。
「カミサマ。いるのか?」
僕がそう問いかけると、その声に導かれるようにして、社殿の脇から『それ』はぬっと姿を現した。
なぁーお、と間の抜けた鳴き声がかすかに耳に届く。
現れたのは、一匹の猫だった。
社殿と同じくかなりの年を取った、覇気のないヨボヨボの猫。もともと真っ白だったはずの毛並みは薄く黄ばんでボサボサになってしまっている。
よろよろと覚束ない足取りで、そいつはゆっくりと僕の方へと歩いてくる。そうして僕の前に腰を下ろすと、くっとアゴを上げ、ほとんど目の開いていない、まるで眠っているような顔でこちらを見上げる。
ごはんをくれ、という合図だ。
「よし、待ってろ」
僕はカバンから弁当箱を取り出すと、わざと残しておいた煮干しをそいつに与えた。一尾ずつ手のひらに載せて口元へ持っていくと、緩慢な動作でもそもそと食べる。
『カミサマ』という名前は、僕が勝手に付けた。由来は、この神社を根城にしていることからだ。
出会いは今から十年前。ちょうど、あのお姉さんが消えてしまった頃のことだった。
彼女がいなくなった後も、僕は変わらず毎日のようにここへ通っていた。ここで待っていれば、いつか彼女が戻ってきてくれるかもしれない——そんな気がしていたからだ。
けれど、彼女はいつまで経っても帰ってはこなかった。もともと泣き虫だった僕は段々と寂しくなって、ついにはこの境内の隅で泣き出してしまった。
そんな僕を慰めるようにして現れたのが、この白猫だった。
(こいつも年を取ったよなぁ……)
あれから十年。
僕は十七歳になった。
そして、カミサマの年齢はもはや誰にもわからない。僕と出会ったときにはすでに成猫で、今と変わらず毛もボサボサだった。
言ってしまえば出会った当初から老猫のような風貌だったので、名付けの際も『神様』か『仙人』かで迷ったほどだ。したがって、今では相当な老齢であることは間違いない。
あのお姉さんが消えた後、まるで入れ替わるようにして僕の前に現れた不思議な猫。
最初は、彼女が猫の姿になって戻ってきたんじゃないかと考えたこともあった。
けれど、彼女はこんなふてぶてしい感じではないし、髪の毛だっていつもサラサラだった。たとえ本当に猫の姿になったとしても、こんな不格好な野良猫のようになることはないだろう。
とはいえ、僕はこのカミサマのことが結構好きだったりする。
こんな寂れた神社で、常に一匹で過ごしている孤独な猫。群れることはおろか、メス猫一匹寄せ付けるところも見たことがない。たぶん、子どもを作る気もないんじゃないだろうか。
(僕は、こいつに似ているのかもしれないな)
自分と重ね合わせてしまうところがあるせいか、僕はこの猫のことを嫌いにはなれなかった。
むしろ羨ましいとさえ思う。
(どうせ似た者同士なら、僕も猫だったらよかったのに……)
何の悩みもなさそうなカミサマを見ていると、つい羨ましくなってしまう。
僕もこんな風に気楽に生きられたらな——と、実現するはずのない夢に思いを馳せていると、
「その猫ちゃん、可愛いね」
いきなり、背後から声がした。
不意を突かれた僕は内心飛び上がりそうなほどびっくりした。
この神社に、人がいる?
ありえないことだ。
こんな寂れた場所に足を運ぶ物好きが、僕の他にいるだなんて。
僕は心臓をバクバクさせながら、恐る恐る後ろを振り返った。
そこには、一人の少女が立っていた。
僕と似たような年齢の、高校生くらいに見える女の子。
とはいえ身なりは学校の制服ではなく、空色のワンピースの上から薄手のカーディガンを羽織っている。肩下まで伸びる髪はサラサラで、頭上から差す木漏れ日が表面に揺れていた。
「キミも猫が好きなの?」
彼女はそう言って、にこりと笑いかけてくる。人懐っこそうな、朗らかな笑み。
僕は何と返事をすればいいのか頭が回らず、しゃがんだ体勢のまま、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「あっ、いきなりごめんね。びっくりさせちゃったかな?」
「えっと……」
びっくりはした。
けれど、そんなことよりも。
(なんで、こんな所に女の子が?)
ここに女の子がいること自体が不思議で仕方なかった。昼間でも薄暗いこんな寂れた神社に、一体何の用事があってこの子は訪れたのだろう?
まあ、僕も人のことは言えないのだけれど。
「その猫ちゃん、キミに懐いてるんだね」
言いながら、彼女は僕の正面に回って、もそもそと煮干しを食べているカミサマの前にしゃがみ込んだ。
「この子、毛がボッフボフだねー。可愛い!」
「可愛い? って、どこが?」
思わず突っ込んでしまった。
カミサマのふてぶてしい態度を毎日見ている僕にとって、『可愛い』というイメージは皆無だった。けれど、そんな僕のつれない反応に彼女はびっくりした顔をして、
「えー? 可愛いよ! だってほら、こんなに毛がボフボフしてるんだよ?」
そう、少しだけムキになった様子で反論する。
僕は改めてカミサマに目を落として、まじまじとその全身を観察した。
カミサマの毛並みは、もはや手の施しようがないほどに乱れている。老化のせいかもしれないし、あるいは何か病気にかかっているのかもしれない。けれど僕の知る限りでは十年前からすでにこの状態だったし、今まで普通に生きてきたところを見ると、ただの体質なのかもしれない。
「……ボフボフっていうか、ボサボサの間違いじゃないの?」
「ボフボフでもボサボサでも、可愛いものは可愛いよ!」
ねっ、と同意を求めるように、彼女はニコッと明るい笑みを浮かべる。
変わった子だな——と、柄にもなく僕の方が思ってしまった。
一般的にいう『可愛い猫』というのは、毛がふわふわで甘えん坊で、表情や仕草にも愛嬌がある猫のことをいうんじゃないだろうか。
カミサマはその対極にあるといってもいい。毛並みも悪いし、目つきも悪い。おまけに動きも遅くてしかも無愛想だ。正直、どこを指して可愛いと言っているのかわからない。
女の子はカミサマが煮干しを食べ終えたのを確認すると、その細い指でボサボサの頭を撫でた。親指と人差し指の腹を使って、耳をピコピコとさせる。
「あのね。猫ってみんな、福猫なんだよ。一緒にいると、幸運が訪れるんだって」
彼女はそう、僕が聞いてもいないことを嬉しそうに話す。
ますます変な子だな、と思う。
僕はどう反応すればいいのかわからず、ひたすらカミサマの眠っているような細い目を見つめていた。
「ところで、あなたはどうしてこんな所に一人でいるの?」
出し抜けにそんな質問をされて、返事に困った。むしろこっちが聞きたかったのだが、先を越されてしまった。
「いや、僕は、その……」
しどろもどろになりながら言い訳を探していると、彼女は興味津々な目でこちらの顔を覗き込んでくる。
さすがに、あのお姉さんのことを待っている、なんて話はできないし、そもそも信じてもらえるとは思えない。どう誤魔化そうかと僕が迷っていると、
「あ! いまウソつこうとしてるでしょ? 目が泳いでる」
こちらの心中を探るように、彼女はますます顔を近づけてくる。
「ちょ、ちょっと。近いって」
あまりにも至近距離から見つめられて、僕はたまらず後ずさった。
それを見た彼女は、今度は困ったように腕をこまねいて言った。
「うーん。そんなに言いたくないことなの? じゃあ聞かない方がいい?」
やっとわかってくれたか……と思いかけたものの、彼女の言い方に僕は少し引っかかった。
正直なところ、別に「言いたくない」というわけではないのだ。むしろ相手の反応次第では、あのお姉さんの謎について誰かに相談したいとさえ思っている。
けれど、実際はどうせ話したところで誰も信じてはくれない。
それこそ小学生の頃はクラスメイトの何人かに話したこともあったけれど、誰もが僕をウソつき呼ばわりして笑っているだけだった。
いま目の前にいる彼女もきっと、彼らと同じ反応をするだろう。
それがわかっているから、僕はあえてこの話題を避けているのだ。
「あれ? どうしたの。すんごい難しい顔してる。……もしかして怒らせちゃった?」
僕があれこれと思案しているうちに、彼女はいつのまにか不安げな表情を浮かべていた。どうやら眉間にシワを寄せた僕の顔が相当深刻だったらしい。
「ご、ごめんね。私、あなたを怒らせたかったわけじゃなくて……」
さっきまでのぐいぐい来る勢いから一転、彼女は急にしおらしくなってしまった。
僕が怒ったかもしれない、というのがそんなにショックだったのだろうか。
あれだけ無遠慮に話しかけてきた割に、意外と相手の顔色を窺うんだな、と思った。
というか、さすがにここまで露骨に気を落とされると、なんだか僕の方が悪いことをしているような気がして申し訳なくなってくる。
「あ、いや。別に怒ってるわけじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
それとなく濁した言葉の先を彼女に促されてしまえば、僕はもはや続きを語る他なかった。
「……どうせ話したって、こんな話、信じてくれるわけないからさ」
「えっ。なんで? そんなの、話してみなきゃわからないでしょ?」
彼女は少しだけ調子を取り戻した様子で、再び顔を近づけてくる。さっきよりも真剣な表情で。
「ちょっ、だから近いって」
「私なら信じるかもしれないよ? 話す前から諦めちゃうなんてもったいよ。みんながみんな、同じ受け取り方をするわけじゃないでしょ?」
誰もが同じ受け取り方をするわけじゃない。
それも確かに一理ある。
いま目の前で僕の話を聞いている彼女の雰囲気からすると、超常現象なんかの類には興味津々で食いついてくるかもしれない。
けれど僕のこれは、そんなエンターテイメント的な話題として受け止めてほしいわけではないのだ。
あのお姉さんを失った悲しみはいつまでも癒えないし、あれから十年経った今でも、僕は彼女の帰りを待ち続けている。
「……面白がってるだけなら、余計に話したくないよ。これは僕にとって繊細な問題なんだから」
「面白がってるわけじゃないよ!」
一際大きな彼女の声が、境内に響いた。
「面白がるわけないよ。だってキミ、すっごく寂しそうな顔してるもん」
彼女は真剣な顔で、両手の拳を胸の前でぐっと握り込んで言う。ふざけてるわけじゃないよ、という彼女の意思が全身から伝わってくるようだった。
そんな彼女の様子が、僕には不思議だった。
なぜ、見ず知らずの彼女が僕なんかのために、ここまで必死になっているのだろう?
「なぁーお」
と、今度は足元から気の抜けるような声が上がった。
無論、カミサマである。つい存在を忘れてしまっていた。
目の前の彼女も我に返ったのか、すかさずポケットからスマホを取り出して画面を確認する。
「あっ。私、もう行かないと」
どこか慌てた様子で立ち上がった彼女は、スカートの裾についた砂を払いながら言った。
「今ね、引っ越し作業の途中だったの。勝手に出てきちゃったから、早く戻らないと」
引っ越し作業。
ということは、これからどこか遠くへ行ってしまうのだろうか。
せっかく会えたのにな——と、一瞬だけ考えて、ハッと我に返る。
いや、何をらしくないことを考えているんだ、僕は。
「それじゃ、またね。次に会ったときは、お話の続きを聞かせてね!」
そう明るく言った直後、彼女はひらりとスカートの裾を翻らせて風のように走り去ってしまった。
あまりにも一瞬の出来事で、僕は簡単な挨拶すら発することができなかった。
次に会ったときは、と彼女は言っていた。
ということは、また会える可能性があるのだろうか。
もしかすると、彼女の言う『引っ越し』というのは、どこか遠くへ行くという意味ではなく、逆にこちらの地域へやってきたことを指していたのかもしれない。
「なぁーお」
と、再びカミサマが足元で鳴いた。
見ると、腹の膨れたカミサマはもう僕に用はないといった様子で、こちらに背を向けて毛づくろいを始めている。
そんなことをしたって毛並みは良くならないくせに——と、少しだけ可笑しくなって、僕は苦笑した。
そうして改めて、さっきの女の子のことを思い出す。
こんな風に誰かと他愛もない会話をしたのは、一体いつ以来だろう?
(次に会ったときは……か)
また会えるだろうか——と、わずかに期待のようなものが胸の奥に芽生えて、すぐに頭を振る。
「……どうかしてるな」
誰にともなく呟きながら、僕は空になった弁当箱を片付けた。
◯
翌朝。
いつものように一人寂しく登校した僕は、毎度おなじみ朝のホームルームが始まると、その場の光景に呆気に取られた。
「今日は転校生を紹介する」
黒板の前に立つ担任教師の隣には、見覚えのある女の子の姿があった。
穏やかな微笑を浮かべているその顔を見て、僕は息を呑む。
肩下まで伸びるサラサラの髪。濃紺のブレザーに赤いチェック柄のリボンとスカート。まごうことなき我が神木高校の制服を纏ったその子は、まさに昨日神社で会ったあの女の子だった。
(うそだろ。本当に……?)
何かの冗談かと思った。
けれど彼女は黒板に自分の名前を書き終えると、改めてこちらを振り返り、明るい声で言う。
「はじめまして。岩倉高校から転校して来ました。鏡宮那智といいます。よろしくお願いします!」
言い終えるのと同時に、彼女はニコッと屈託のない笑みを浮かべてみせた。
その眩しい笑顔に、教室中がざわめき始める。
けっこう可愛くね? なんて声があちこちから聞こえてくる。
そんな周りの反応を見て初めて、僕は彼女が『可愛い女の子』であることを理解した。
今まで人の顔の美醜なんてあまり気にしたことがなかったけれど、言われてみれば確かに、彼女の顔は整っている。目はぱっちりと大きくて、まつ毛も長い。鼻筋もスッと通っている。
この顔であんなキラキラとした笑顔を振りまくのだから、周りの男子たちが色めき立ってしまうのも無理はない。
可愛い転校生が来た——と、一時間目の授業が終わる頃には、SNSのグループを通して学年全体にウワサが広まるほどだった。
◯
「ねえねえ! キミ、昨日あの神社で会ったよね?」
話題の転校生、鏡宮那智はあろうことか、休み時間になると真っ先に僕の席までやってきた。そうして開口一番、昨日の神社でのことを話し出す。
「あ、いや。ここでその話は……」
多くのクラスメイトたちの視線が集まる中で、あの神社のことを話題にするのはやめてほしかった。
あの場所は僕にとって唯一心安らげる場所であり、十年前に消えてしまったあの人を待つ神聖な場所でもあるのだ。
けれど彼女はそんな僕の思いなど知る由もなく、
「えっと、刀坂社くん、だよね? えへへ。さっき出欠取ってたときに覚えちゃった!」
朗らかな笑みを浮かべ、相変わらずの調子でぐいぐい話しかけてくる。
僕は無言で顔を逸らしながら、内心焦っていた。
頼むから今は話しかけないでほしい。
ただでさえ注目を浴びている彼女に絡まれれば、クラスメイトたちは自然と僕に意識を向けてくる。
いつものように一人で読書をして平穏に過ごしたいと思っている僕にとって、彼女はいま一番関わりたくない相手なのだ。
けれどそんな僕の焦りもむなしく、僕らの周りにはぞろぞろとクラスメイトたちが集まってくる。
「なんだよ刀坂。お前いつのまに鏡宮ちゃんと仲良くなったんだよ?」
抜け駆けなんてずるいぞ! とでもいうように、爽やかな笑顔で話しかけてきたのはクラスの人気者、榊くんだった。
彼に続いて、他の男子たちもそうだそうだと口々に僕を茶化す。
普段ならこんなことは絶対にありえない。それだけこの可愛い転校生の影響力は大きいということか。
しかもよくよく見てみると、教室の入口の辺りには他のクラスの野次馬たちまで集まってきている。
「ねえ刀坂くん。どうしたの? 私のこと、忘れちゃったわけじゃないよね?」
ひたすら沈黙を保つ僕に、鏡宮は負けじと食い下がってくる。
やがてそんな彼女を見兼ねたのか、
「ごめんね、鏡宮さん。刀坂くんっていつもこうなの。どうか気にしないでね」
と、代わりに女子の一人が言った。
そのまま僕の席から引っぺがされるようにして、鏡宮は女子グループの方へと半ば無理やりに連れ去られていった。男子たちも自然と僕から離れていく。
その様子を見届けて、僕はホッと胸を撫で下ろした。
そうだ、これでいい。
彼女のような人気者と、僕のような日陰者とでは生きる世界が違う。
僕には僕の、彼女には彼女の、お似合いの生き方というものがあるのだ。
……と、そこで終われば良かったのだけれど。