その日の夜、朝春が、残業続きの両親の代わりに妹の夜子の寝かしつけをして、自室に戻ると、スマートフォンには月島からのメッセージがまた届いていた。
着信の記録と、<悪い、間違えた>というテキストと、ラッコが頭をさげているスタンプ。
ベッドの上、壁に背を預け、三角座りをして月島とのトーク画面を眺める。
「……暇なんだろうなあ」
自分の部屋だし目の前に月島がいるわけでもないから、気をゆるめた状態で独り言ちて、<大丈夫だよ>という言葉と、ラッコがにっこり笑っているスタンプを送る。
すると、一瞬で既読がついて、「……やっぱり、暇なん、っ、え」――月島から電話が、かかってきた。
「えっ、え、……えー、どうしよう?」
というか、どうして。
たった今返信をしたばかりなのだから、気づきませんでした、は通用しないだろう。となると、朝春には、出るか出ないかの二択しかなかったが、既読無視ができない時点で着信無視などできるはずもなく、実質、一択だった。朝春は、月島からの電話に出るしかない。
おろおろしながらも、座り方を三角座りから正座に変えて、ベッドの上で背筋を伸ばす。そのあいだも、スマートフォンの画面は朝春に着信を知らせたままである。ふすう、と一度、下手くそに息を吐いてから、朝春は思い切って通話ボタンに指で触れて、スマートフォンを耳にあてた。
「………も、もし、もし」
「あ。夏目?」
「……うん。夏目、です」
「わりぃ。また、間違えた」
「えっ」
「嘘。かけた」
フハ、と、月島の息を抜くような笑い声が電話越しに届いて、朝春は、自分の耳にぽわあっと熱が生まれるのを感じる。
「あの。……どうしたの?」
朝春が、よい姿勢を保ったままこわごわ尋ねると、布が擦れるような音が聞こえた。それに続いて、「夏目って、今何してんの」と質問で返される。
「えっと、妹の寝かしつけが終わって、本でも読もうかなあ、などと、思ってました」
「何の本?」
「……昆虫学者のエッセイ?」
「面白いの?」
「俺は好きかな。でも面白いかどうかは分からない……」
「ふぅん」
「あの」
「ん?」
「……月島君は、何してた?」
聞かれたら聞き返すのがマナーだろうと思ったのが七割、興味関心が三割。朝春は、正座した足の指をごにょごにょと動かして、スマートフォンを耳にくっつけたまま月島の返事を待った。
「俺は、猫と遊んで、サッカーの試合見てたわ」
「……あ、クロゴマちゃんだったよね。いいなあ。元気?」
「まあ、元気だな」
「サッカーは、日本代表の試合? 昨日、テレビのCMで今夜放送されるって見たかも」
「そう、でも途中で飽きて、夏目は、何してんのかなって思って」
「そんなに面白い過ごし方はしてなくて、申し訳ないです」
「別に、俺、お笑い求めるわけじゃないけど。てか、夏目が妹の寝かしつけするんだな」
「あ、親が忙しいときだけ。一緒に横になってあげるだけなんだけどね」
「夜子ちゃんだっけ」
「うん、そう、夜子」
「夏目、妹になんて呼ばれてんの?」
「え? あ、うーん、……にぃに、とか? あと、時々、下の名前で呼び捨てもされる、かな」
「あさはるーって?」
「うん。……って、えっ」
朝春。まさか、その言葉が月島の口から出るなんて、朝春は思いもしなかった。
「うん?」
「……や、ごめんなさい。びっくりしちゃった。……月島君、俺の名前まで、知ってくれてるんだなって」
トゲを抜いた日、保健室で朝春の自虐に眉をひそめていた月島の顔が頭に浮かび、誰も見ていないのに、ベッドの上で無理やり愛想笑いを浮かべる。
「そりゃ、去年も同じクラスなんだし分かるだろ。てか、俺が夏目のことちょっとでも知ってたら、すげえ驚くのは、なんで」
「う。……なんでだろう」
「それに、メッセージアプリのアカウントの名前だって、朝春だろ」
「あ。そうだった」
「なーんか、いちいち抜けてんね」
「……よく言われます」
朝春がひとりうなだれていると、フ、と電話の向こうで月島が笑う音が聞こえた。
「夏目、朝春」
「へ」
「自分の名前に、季節が二個あるの贅沢でいいよな。春も夏も、季節の中でも夏目に似合ってるし」
「そ、それを言うなら、月島君だって。……月島虹星、は、月も星も、虹だって入っていて、きれいだし、世界の真ん中って感じがする……」
「それは、褒めてんの?」
「も、もちろん」
「……夏目の方こそ、俺の名前、漢字まで知ってくれてんだ」
「月島君の名前は、高校にいる全員が知ってると思う……」
「いや。それはさすがにビビるわ。知られてたいって自分が思うやつだけがいいんですけど」
テキスト中心のメッセージのやり取りよりは、コミュニケーションにタイムラグがない分、当然、緊張してしまう。
だけど、学校で喋るよりは、まだ平気だった。この部屋には朝春しかいないし、月島以外の誰のことも気にする必要がないからかもしれない。
それから、月島の声。いつも教室で朝春が聞いているものとは違っていて、心なしか少し柔らかで優しくて、別の人の声みたいに朝春の耳に届いていた。
朝春は、なるべく音を立てないよう気をつけながら、正座から三角座りにゆっくりと体勢を戻す。電話の向こうでまた、布が擦れるような音が聞こえ、それで、唐突に気になってしまう。
朝春は、ベッドの上に座っているけど、月島は今、どこで、どんな体勢で電話をしているんだろう。どんな格好で。朝春は、制服姿と体育着姿の月島しか知らないから、気になったはいいものの、うまく想像できない。
「夏目」
「……うん?」
「夏目って、いつも夜は読書してんの?」
「勉強以外は、夜子ちゃんと、あ、えっと、妹、の相手したり、ゲームしたりするほうが多いかな」
「どういうゲーム?」
メッセージ上でも、月島は朝春にたくさん質問をしてくるけれど、電話であってもそれは変わらないらしい。機知に富んだ話題提供ができない朝春は、その分、聞かれたことにはしっかり答えるようにしていた。
「……ゾンビを倒すゲームと、農場をつくるゲームに今はハマってるかも。あ、どっちとも、スマートフォンでできるゲームなんだけどね……」
それぞれのゲームの内容について説明すると、「アプリいれてやってみるわ」と月島が興味を示してくれたから、少し嬉しくなる。
最近した席替えのこと、これまでの学校生活でつけられたことがあるあだ名のこと、朝春たちの高校の教師のこと、お気に入りのアイスやお菓子のこと、エトセトラ。月島の話術のおかげか会話は思いのほか弾んで、気づけば日付を跨いで話し込んでしまっていた。
まるで、本当の、友達みたいに。
「ね、夏目はいつも何時くらいに寝るの?」
いや、友達? これは、友達みたい、であってるのだろうか。
真夜中には、人の声音から甘みを引き出す作用でもあるのか、朝春は月島の声から甘ったるさのようなものを感じて、急にそわそわしてしまう。もしも月島のことが好きな人間だったら、彼のこのような声を聞いたらもう、永遠の恋になってしまうに違いない。
「いつもは十時半までには、寝てるかも。月島君は?」
睡眠の質と時間の確保は、朝春にとっては翌日をできる限り健やかに生きるための必須条件であるから、真夜中を越えて起きているなんてことがここ数年では一度もない。
「はや。俺は、夏目に比べたら結構夜更かしかもな。……そろそろ寝る? なんか少し前から声、とろんとしてるし」
「……うそ。お恥ずかしいです。でも、そうだね、そろそろ……」
「ん。長いことさんきゅ」
「こ、こちらこそ」
「……じゃあ、おやすみ?」
「あ、うん。……おやすみなさい」
「ん。また、通話したい」
プチン、と糸が切れるみたいに月島の方から電話が切られ、朝春は夢から覚めたような気持ちになった。スマートフォンを持つ手はぐっしょりと汗ばんでいるけれど、不快感はない。スマートフォンを耳からそっと離す。
「……うわあ」
意味のない言葉が自分から漏れ出て、朝春は、ベッドにぽすんと上体を倒した。
早く眠らないといけないのに、アドレナリンが出過ぎているからか、睡魔は朝春に近づこうとしてくれない。せめて部屋だけでも暗くしなければ、と、朝春は部屋の明かりを常夜灯に切り替えて、またベッドの上に仰向けになった。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、天井を眺める。篠や木澤を含め、今までクラスメイトと長電話なんてしたことがなかったから、朝春にとっては初めての経験だった。その相手が、まさか月島になるなんて。
「……うわあ」
まだ熱の残る静かな夜の底で、朝春は堪らなくなって、意味のない言葉をまた零した。