放課後、当たり前のように弓月は俺の寮部屋を陣取り、世界史の教科書を広げていた。

 今朝の小テスト後のクラスはいつもの光景だった。
 淡々と不合格者へ追試日程を告げる教師。
 大げさに頭を抱えてうずくまる者。
 今回はセーフだとガッツポーズを決める者。
 斜め前の席に座る弓月はもちろんーーー
 撃沈という表現がぴったりだった。顔を机に突っ伏し、ぴくりとも動かいない様子はさながら打ち上げられた鮭だった。


「歴史なんて知ってどうするんだよ…俺たちは未来を生きていくのにさ…」

 弓月は歴史嫌いのテンプレのようなセリフをずっとぼやいている。
 
「過去ばっか振り返ってるとつまらない大人になるってばあちゃんが言ってた!」
「…確かにそれは一理あるな。まあ、好きな奴いたらそいつの過去も知りたくなるだろ。歴史を知るって、俺はけっこう大事なことだと思うぞ」

 ずっと教科書に喧嘩を売っていた弓月が、顔を上げる。ぱあっ、と字幕がつきそうな表情でこちらを見つめる。

「なるほど!! それすっごく納得!! やっぱ頭良いやつは言うことが違うなー! おまけにけっこうイケメンなんだからずるいよー」

 弓月はペンを持ち直すと、せっせと教科書にマーカーを引き始めた。
 理不尽な文句を言われた気がするが、やる気が出たようでなによりだ。

「俺も爽のこともっとよく知りたいのにさ、爽はあんま教えてくれないんだよなあ。学力推薦で高校に入ったってすげーからもっと自慢していいのに」

 うるさい子犬は手と口を器用に動かし始めた。

「爽は頭も良いしけっこうイケメンだし、モテるだろ? 中学の時彼女いた? どんな子? かわいい? あ、つーか今彼女とかいるの?」 

 俺は己の発言を悔い始めた。
 無邪気な質問は、容赦なく今の俺を突き刺していく。

「まったく、うるさい奴だな。口じゃなく手を動かしてろ」
「いいじゃん、教えてよー」
「今教えてやってるだろ」
「世界の歴史じゃなくて、爽の歴史を知りたいんだよっ。 あ、そんな反応するってことは、やっぱ彼女いるの!?」
「……本当ににうるさい奴だな。この問題集のテスト問題で全問正解できたら色々教えてやるよ」
 
 問題集の、小テストの出題範囲ページを開きドンと置く。
 とにかく今は弓月に黙って欲しかった。

「げっ、全問かよ……」
「当たり前だ。再々テストは嫌だろう?」
「そっ、そうだけど! けど今は爽のこと教えて欲しいから頑張る! 約束だからな! 全問正解したら絶対教えてくれよな!」 
「ああ、分かったから口より手を動かせ」

 弓月はいつになくやる気に満ちた表情で鉛筆を握りしめた。

ーーーなぜ、唐突にあんな約束をしてしまったんだ、俺は。
 弓月への気持ちが不本意に大きくなっている自覚はあったが、それを悟られるようなことはしないつもりだ。
 というか、自分でもどうすべきか分からず、弓月とどうなりたいのかもわからず、ただただ感情に支配されていた。 
 懇切丁寧に勉強を教えてしまったことを少し後悔し始めた。