感情って残酷だ。
その感情を味わいたくないのに、
血に、肉に、皮膚に。張り巡らされた神経の端から端まで支配されていく。
ことのほか、"すきだ"という感情は、ブレーキの外れた機関車のようだと俺は今、思い知らされている。
ないブレーキを必死に探し、息が詰まるようなこの状況にどこか、
胸が暖かくなるような錯覚もして。言葉では形容しがたいこの感覚の中毒になっていく。
「おはよう、爽!」
朝の気だるい通学路。
愛されることしか知らない子犬のような顔が、今日も俺に声をかけてきた。
「……よう。相変わらず抜けてる顔だな。今日は忘れずに顔を洗えたのか?」
俺がからかうと、子犬は口をとんがらせる。
「んだよ、いっつもばかにしやがって。いつも洗ってるよ!」
「はは、冗談だ。そんな怒るなって」
俺はふくれつらの子犬の頭をぽんぽんと宥めるふりをして、こいつの栗色の髪の感触を楽しんだ。
「今日は1限から世界史小テストらしいよー。ヤマダからの裏情報!」
俺の腹の中はつゆ知らず、こいつは級友からの今さら情報を俺に伝達している。
警戒も嫌悪もない、声音と顔色。
まじだりぃよな、などとぼやく横顔を、俺は奇跡の一枚写真でも見るように眺めていた。
「爽は頭良いから小テストなんかヨユーだもんな。いいなあ、俺なんて小テストの再々テスト確定だよ…」
「……ああ、弓月はバカだもんな」
「なんだと! 俺だって本気出せば爽よりすごいんだからな! 本気を出せばな!」
「はいはいそうだな。かわいい弓月くんは本気の出し方をママのお腹の中に忘れて来ちゃったんだもんな」
「くぅ、今日の爽はなんかいつも以上に意地悪だぞ!」
ぷんすこ、と背景に字幕が出そうな子犬ーーもといこの男、弓月は色んな意味でバカだ。
勉強は言わずもがな、俺の胸中のきの字も知らず、俺の言動に一喜一憂してくれる。
単純、といったほうがこいつの名誉のためだろう。
「悪かった、ふざけ過ぎた。再テストになったら勉強教えてやるから機嫌直してくれ」
「まじで! やったー!! どこで勉強会する? 爽の部屋また行って良い??」
ふくれつらの次は、おやつを見つけた子犬のような顔になる。
なぜ追試確定なのかはさておき、こいつを独り占めできる機会を自然に作れることに心臓がうるさくなった。
「また俺の部屋か。まったく、お前は俺の寮部屋をねぐらにでもするつもりか?」
「だって爽の部屋落ち着くんだもん。俺の部屋と違って片付いてるし、母ちゃんがうるさくないし。俺も寮で一人暮らししたいよー」
屈託のない笑顔が、声が、俺の知覚神経を刺激する。
ああ、またあの感情だ。
心臓は暴れ、血肉は支配され、見えないブレーキを手繰り寄せたくなる、あの感覚。
一喜一憂しているのは俺の方じゃないかーーー。