「本当に、これでいいんだな」
「はい」
一ヶ月ぶりにやってきた学校。生徒指導室から見えるグラウンドでは、直樹のクラスの体育が行われている。けだるげに木にもたれかかっている堤の隣には、国木と田中もいた。あいつらは、直樹が転校すると知ったら、どう思うだろう。もしかすると、なんの感情も抱かない可能性もある。まぁいい。もう関係ないのだから。目の前に座る山本が大きく息を吐いた。
机の上に大きな紙袋が置かれた。直樹が教室に置いたままにしていた荷物だ。
「次の場所では頑張れよ」
山本は、直樹が堤たちから嫌がらせを受けていることを知らなかったと言っていたと、学校に転校の話をしてくれた両親から聞いた。山本の言葉が本当なのか、それとも自分の保身のためなのかは直樹にはわからなかった。
「お世話になりました」
小さな反抗として、思ってもいない言葉を贈っておいた。
生徒に会いたくなくて、授業中の時間を狙って荷物を取りに来た。体育の笛の音と遠くから聞こえる小さな歌声を聞きながら、廊下を歩く。そして、生物室の前で足を止めて、耳をすます。授業はやっていないようだ。
直樹は今日でこの学校をやめる。そのことにもう迷いはない。ただ最後にもう一度だけ、会いたい人がいる。直樹は扉をノックした。
「どうぞ」
聞きたかった声がした。扉を開けると、顕微鏡を磨いている山津がいた。
「話は聞きましたよ。転校するって」
生物室に来ることを、直樹は誰にも告げていない。それなのに、山津は直樹が来ることを予想していたかのようだった。
直樹は来月から、美術を中心に勉強する通信制の学校に行くことが決まった。多分だけれど、直樹の両親は、直樹の学校での生活のことに薄々気づいていたのだと思う。転校したいという相談にはじめは驚いていたものの、すぐに手続きを進めてくれた。
「山津先生」
「はい」
直樹はすっと息を吸い込んだ。大嫌いだった学校の空気。けれど、この生物室の空気だけは、好きになってやってもいいと思った。
「海に行ってきます」
「そうですか」
「そうですかって」
もっとほかに言うことがあるだろう。
元気でやれよとか、無理するなとか、なんでも。
けれど不思議だ。山本の「頑張れ」という言葉よりも、ずっとずっと温かい。
「お世話になりました」
これは、心からの言葉だ。直樹は頭をさげた。
「こちらこそ」
世話をしたつもりはないんだけどな。
初めて会ったときから思っていたが、この人は少し、いや、かなり変わっている。でも、会えて良かったと思える人に、初めて出会えた気がする。なんの価値も感じていなかった学校生活の中で、たったひとつだけの大切な思い出だ。
「ありがとうございました。失礼します」
ほかにも伝えたいことはあるけれど、なにも言わなくてもこの人なら受け取ってくれるだろう。だからもう、これで十分だ。そう思い、教室の扉を閉めようとしたときだった。
「高橋くん」
直樹は振り返った。窓から差し込んでくる光がまぶしくて、山津の顔がよく見えない。
「もしも海が合わなければ、空や地下、それから樹上にも、行き先はありますからね」
縁起でもないこと言うなよ。そう言いかけて、やめた。
山津の声が、あまりにも悲しそうだったから。