始まりは、小学校五年生のときだ。体育のドッジボールで、誰かが言ったパスの合図を聞き逃したことがきっかけだった。クラスメイト曰く、それが原因で負けたらしい。そこから無視が始まった。最初は一部の男子だけだったのが、いつの間にかほかのクラスメイトにも広がってしまい、それは六年生になっても続いた。

 中学では気をつけよう。そう決めたはずだったのに、二年間ほとんど人と話さなかった自分が、新しい環境で友人をつくることは至難の業だった。あっという間にクラスではグループができてしまい、どこにも入ることのできなかった自分は、またしても孤立してしまった。

 次の学年では頑張らなきゃ。

 高校では変わらなきゃ。

 今度こそ、

 今度こそ。


 何度自分に言い聞かせても、気がつけばいつも教室の同じ位置にいる。ここまで来ると、もう環境や周りの人のせいじゃないというのは、嫌でも自分でわかってしまう。

「どれだけ頑張ったって、どうせいつも一人になる。そんな人間生きている意味なんてないですよね」

 山津は答えない。今までしゃべったことのない相手にこんな暗い話をされたって、困るに決まっている。そんなことすら話す前に気がつけない自分が馬鹿みたいだ。そういうところなのだろう。自分のこの性格が、もしかしたら存在自体が、みんなを不快にさせてしまっている。

「高橋君、でしたね」

 山津が漂白剤を染みこませたティッシュを紙に押しつけながら言った。
 直樹には山津に名前を教えた記憶がない。今日まで一切関わりがなかったのに、生徒の名前を把握していることなんてあるのだろうか。そんな疑問は、山津の言葉でかき消された。

「ライオン、シマウマ、チンパンジー、オオカミ、アルマジロ、アザラシが緑の多い陸にいるところを想像してください」

「は?」

 さっきまでの話とは、あまりにもかけ離れている。汚れを取るのに集中して、聞いていなかったのか。直樹の戸惑いをよそに、山津は話し続ける。

「アザラシは、ほかの動物に笑われています。餌も取れず、身を守るすべも持たない。生き方が下手だと馬鹿にされています。君はそんなアザラシをどう思いますか?」

「どう、って」

 直樹は山津に言われるがまま、その奇妙な光景を想像した。

 みんな間違っている。アザラシは本来陸で生きる生き物じゃない。それなのに、勝手に居場所を決められて、そこでうまく生きられないから笑われる。そんなのおかしい。でも、アザラシは自分を惨めに思うのだろう。みんなはうまくやれているのに、どうして自分だけ、と。

「かわいそうだと思います」

「それはどうしてですか」

「だって、アザラシが過ごす場所はそこじゃないから」

「その通りです」

 直樹の答えに、山津は満足げにうなずいた。

「今の君は、まさにアザラシです」

「え」

 自分がアザラシ? 意味がわからなかった。

「陸という、君に合わない環境でどれだけあがいても、生きづらさが変わることはありません」

 山津が立ち上がり、直樹のノートを目の前に置いた。直樹がノートを開くと、うっすらと痕が残っているものの、汚れはかなり薄くなっていた。

「生きる場所を陸ではなく海に変えましょう。周りの動物たちが戸惑っているとき、アザラシはきっと、誰よりも自由に生き始める。君にとっての海はどこか、一度考えてみてください」

 準備室の方から、軽快な音楽が小さく流れてきた。終わったようですね、と山津が椅子から立ち上がる。直樹はノートに目を落とすことしかできなかった。

 自分にとっての海。そんなもの、本当にあるのだろうか。