「手が離れたんじゃない。私がわざと離したんです。離してしまったら、いずみが一人になることはわかっていたのに」
いずみが傷つくことよりも、自分が傷つく方が怖かったから。
「いずみを死なせたのは」
私だ。
そう言いかけたとき、山津がそれ以上の言葉を止めるように、右手を前に出した。
「自分を責めるのは、もう終わりにしてください」
かけられるなんて思ってもみなかった言葉が飛んできた。まして目の前にいるのはいずみの父親だ。攻撃の言葉以外が自分に向けられることが、信じられなかった。
「君が一人で海に流されたままだと、いずみが悲しみます」
「そんなはずない」
一生苦しんでも、一生自分を責め続けても、いずみが許してくれるわけがない。
「いずみは私のことをきっと恨んでる」
「それは違います」
山津はそう言い切った。
「いずみは今も君のことを友達だと思っています」
「なんでそんなことがわかるんですか」
二度と本人に聞くことなんてできないのに。
「君に一つお願いがあります」
山津は、質問に答えてはくれない。その代わりみたいに、一つのお願いをしてきた。
「いずみに会ってもらえませんか」
「いずみに……?」
頭に浮かんで来たのは仏壇の光景だった。笑顔のいずみの写真が飾られているのを想像してしまう。けれど山津から聞かされたのは、予想もしていない言葉だった。
「学校の最寄り駅にある総合病院の五〇二号室です」
「病院?」
一年も前に死んだ人に会う場所が、どうして病院になるのだろう。
「いずみは死んでいません。今もまだ生きています」
いずみが、生きている……?
言葉はしっかりと聞こえているのに、理解ができない。いずみは死んでいない。生きている。頭の中で繰り返しても、言葉がすり抜けていくようだった。
「どういう、ことですか」
自分のものではないみたいに、声がかすれてしまった。山津がタチの悪い冗談を言っているのかと思った。けれどその目はまっすぐに沙月を見ていて、決してうそではないことを証明しているみたいだ。
「もう一つ、謝らなければいけないことがあります。君を、いえ、君たちをずっとだましていました。いずみが死んだというのはうそなんです」
意味がわからない。そんなうそをついて、なんのメリットがあるというのだろう。
「いずみのことを忘れられたくなかったんです」
沙月の心の中の声が聞こえたみたいに、山津は話し続けた。
「命を取り留めたというよりも、死んだことにした方が忘れられなくなるでしょう」
復讐。そんな言葉が頭をよぎる。自分の娘を苦しめた人間を許せないのは当然だ。けれど。山津のまとう雰囲気に、復讐という言葉はあまりにも似合わない。本当に、忘れられたくなかっただけなのだろうか。
問いかけることはできなかった。
次の日、人生で初めて学校をさぼった。
いずみがいるという病院に行くためだ。山津の言葉をまだ完全に信じられていない。大昔に天動説を信じていた人たちが、地動説を聞かされたときもこんな気分だったのではないかと思う。
放課後に病院に行くこともできた。けれどどうしても学校に足が向かなかった。どんな顔をして学校に行けばいいのかがわからなかったのだ。いずみがまだ生きているということは、他言無用だと山津に言われていたから。
親に疑われないように制服で家を出たのは間違いだったと後悔した。平日の午前中に制服姿でうろうろしている女子高生は、まわりから見てどう思われるのだろう。いつもなら意識したこともない、見ず知らずの通行人の視線が気になって仕方ない。自分が指名手配犯になったみたいだ。
結局誰からも声をかけられることはなく、病院までたどり着いた。自意識過剰だった自分が少し恥ずかしい。病院の待合室には、数人制服姿の患者らしき人がいた。彼らは診察終わりに学校に行くのだろうなと思う。
エレベーター横の案内板を見つけた。昨日聞いたばかりの部屋番号が脳裏によぎる。上のマークのボタンを押すことをためらってしまう。
本当に会ってもいいのだろうか。
ここまで来てもまだ迷ってしまう。そうしている間に目の前の扉が開いた。白衣姿の気の強そうな女医さんが一人いた。立ち尽くしている沙月に、乗らないのか、と目で聞いてくる。その目がオオカミみたいに鋭くて、すみません、とつい勢いで乗り込んでしまった。偶然にも、行く階は同じだった。目に見えない力に案内されているみたいだ。
着いた階は、さっきまでいた場所と比べ物にならないくらいの静けさに包まれていた。呼吸する音さえここでは騒音になってしまいそうだ。ナースステーションの若い看護師さんと目が合う。茶色の髪をお団子にまとめた彼女は、明るい笑顔を浮かべて聞いてきた。
「こんにちは。面会かな」
きさくな話し方に、少しだけ緊張がゆるむ。そうです、と小さく答えた。
「患者さんの名前は?」
「片岡、いずみ」
いずみの名前を口にするのさえ、自分には許されていないような気がする。その罰みたいに、胸の奥が締め付けられるみたいに苦しくなった。そんな沙月とは反対に、看護師さんは笑顔をさらに明るくさせた。
「いずみちゃんのお友達?」
まるで自分の友達が来たみたいな反応だ。友達だなんて言ったら罰があたるかもしれない。そう思ったけれど、否定すると話がややこしくなりそうで、小さくうなずいておいた。看護師さんはわざわざ手を止めて部屋まで案内してくれた。さっきから逃げるタイミングを奪われ続けている気がする。
部屋は個室で、ベッドは一つしかなかった。そこで誰かが横たわっているのが見える。
本当にいずみなのか、ここまで来てもまだ確かめるのが怖い。
「ほら、もっと近くに来てあげて」
入口で立ち尽くしていると、看護師さんに手招きされた。うまく動かせない足に力を入れて、ベッドに近づく。顔が、見えた。
そこには、確かにいずみがいた。
いずみが傷つくことよりも、自分が傷つく方が怖かったから。
「いずみを死なせたのは」
私だ。
そう言いかけたとき、山津がそれ以上の言葉を止めるように、右手を前に出した。
「自分を責めるのは、もう終わりにしてください」
かけられるなんて思ってもみなかった言葉が飛んできた。まして目の前にいるのはいずみの父親だ。攻撃の言葉以外が自分に向けられることが、信じられなかった。
「君が一人で海に流されたままだと、いずみが悲しみます」
「そんなはずない」
一生苦しんでも、一生自分を責め続けても、いずみが許してくれるわけがない。
「いずみは私のことをきっと恨んでる」
「それは違います」
山津はそう言い切った。
「いずみは今も君のことを友達だと思っています」
「なんでそんなことがわかるんですか」
二度と本人に聞くことなんてできないのに。
「君に一つお願いがあります」
山津は、質問に答えてはくれない。その代わりみたいに、一つのお願いをしてきた。
「いずみに会ってもらえませんか」
「いずみに……?」
頭に浮かんで来たのは仏壇の光景だった。笑顔のいずみの写真が飾られているのを想像してしまう。けれど山津から聞かされたのは、予想もしていない言葉だった。
「学校の最寄り駅にある総合病院の五〇二号室です」
「病院?」
一年も前に死んだ人に会う場所が、どうして病院になるのだろう。
「いずみは死んでいません。今もまだ生きています」
いずみが、生きている……?
言葉はしっかりと聞こえているのに、理解ができない。いずみは死んでいない。生きている。頭の中で繰り返しても、言葉がすり抜けていくようだった。
「どういう、ことですか」
自分のものではないみたいに、声がかすれてしまった。山津がタチの悪い冗談を言っているのかと思った。けれどその目はまっすぐに沙月を見ていて、決してうそではないことを証明しているみたいだ。
「もう一つ、謝らなければいけないことがあります。君を、いえ、君たちをずっとだましていました。いずみが死んだというのはうそなんです」
意味がわからない。そんなうそをついて、なんのメリットがあるというのだろう。
「いずみのことを忘れられたくなかったんです」
沙月の心の中の声が聞こえたみたいに、山津は話し続けた。
「命を取り留めたというよりも、死んだことにした方が忘れられなくなるでしょう」
復讐。そんな言葉が頭をよぎる。自分の娘を苦しめた人間を許せないのは当然だ。けれど。山津のまとう雰囲気に、復讐という言葉はあまりにも似合わない。本当に、忘れられたくなかっただけなのだろうか。
問いかけることはできなかった。
次の日、人生で初めて学校をさぼった。
いずみがいるという病院に行くためだ。山津の言葉をまだ完全に信じられていない。大昔に天動説を信じていた人たちが、地動説を聞かされたときもこんな気分だったのではないかと思う。
放課後に病院に行くこともできた。けれどどうしても学校に足が向かなかった。どんな顔をして学校に行けばいいのかがわからなかったのだ。いずみがまだ生きているということは、他言無用だと山津に言われていたから。
親に疑われないように制服で家を出たのは間違いだったと後悔した。平日の午前中に制服姿でうろうろしている女子高生は、まわりから見てどう思われるのだろう。いつもなら意識したこともない、見ず知らずの通行人の視線が気になって仕方ない。自分が指名手配犯になったみたいだ。
結局誰からも声をかけられることはなく、病院までたどり着いた。自意識過剰だった自分が少し恥ずかしい。病院の待合室には、数人制服姿の患者らしき人がいた。彼らは診察終わりに学校に行くのだろうなと思う。
エレベーター横の案内板を見つけた。昨日聞いたばかりの部屋番号が脳裏によぎる。上のマークのボタンを押すことをためらってしまう。
本当に会ってもいいのだろうか。
ここまで来てもまだ迷ってしまう。そうしている間に目の前の扉が開いた。白衣姿の気の強そうな女医さんが一人いた。立ち尽くしている沙月に、乗らないのか、と目で聞いてくる。その目がオオカミみたいに鋭くて、すみません、とつい勢いで乗り込んでしまった。偶然にも、行く階は同じだった。目に見えない力に案内されているみたいだ。
着いた階は、さっきまでいた場所と比べ物にならないくらいの静けさに包まれていた。呼吸する音さえここでは騒音になってしまいそうだ。ナースステーションの若い看護師さんと目が合う。茶色の髪をお団子にまとめた彼女は、明るい笑顔を浮かべて聞いてきた。
「こんにちは。面会かな」
きさくな話し方に、少しだけ緊張がゆるむ。そうです、と小さく答えた。
「患者さんの名前は?」
「片岡、いずみ」
いずみの名前を口にするのさえ、自分には許されていないような気がする。その罰みたいに、胸の奥が締め付けられるみたいに苦しくなった。そんな沙月とは反対に、看護師さんは笑顔をさらに明るくさせた。
「いずみちゃんのお友達?」
まるで自分の友達が来たみたいな反応だ。友達だなんて言ったら罰があたるかもしれない。そう思ったけれど、否定すると話がややこしくなりそうで、小さくうなずいておいた。看護師さんはわざわざ手を止めて部屋まで案内してくれた。さっきから逃げるタイミングを奪われ続けている気がする。
部屋は個室で、ベッドは一つしかなかった。そこで誰かが横たわっているのが見える。
本当にいずみなのか、ここまで来てもまだ確かめるのが怖い。
「ほら、もっと近くに来てあげて」
入口で立ち尽くしていると、看護師さんに手招きされた。うまく動かせない足に力を入れて、ベッドに近づく。顔が、見えた。
そこには、確かにいずみがいた。