体育館のかげになっている生物室は、かなり日当たりが悪い。まだ日が落ちていないのにもかかわらず、明かりがないと薄暗かった。
「こっちです」
準備室につながる扉を山津が開いた。初めて入る部屋だ。人体模型と目が合った気がして思わず目をそらしてしまった。
「私のものですが、良ければ使ってください」
色の落ちた洗濯機の隣にかけられていた白衣を、山津から受け取った。かすかにたばこのにおいを感じる。
「ありがたいことに乾燥機付きです。一時間もあれば乾くと思います」
直樹の脱いだ制服を、山津が洗濯機に入れた。洗剤の粉を静かに投入し、スイッチを押すと、短い音楽が流れた。
「ありがとうございます」
ここまできて、ようやく山津に礼を言うことができた。
もしも、あのままだったら。ついさっきの光景を思い出してしまい、鳥肌が立った。
「いえ、私はなにも」
準備室から出ようとする山津のうしろをついて行く。ひざ下まである白衣は、小柄な直樹には少し大きい。ホルマリン漬けにされた生き物たちが入っているガラス棚に、自分の姿が映っていた。ワンピースを着ているように見えて、恥ずかしさが襲ってくる。毎日毎日、恥ずかしいことばっかりだ。いっそのこと、すべて終わってしまえばいいのに。
うつむいた直樹の目に、堤たちの落書きのある上履きが入ってきた。「おしゃれだよ」と笑いを向けられたことを思い出してしまう。目をぎゅっと閉じて、頭からあの光景が消えてくれることを願った。
「カバンの中身は大丈夫そうですか」
山津に言われて、リュックサックも被害にあっていたことを思い出した。中に入っていた教科書やノートを取り出す。不幸中の幸いで、中身は無事のように思えた。けれど、一冊だけ、端の部分に水が染みこんでしまっているものがあった。よりにもよって、それは一番大切なノートだった。
「できるだけ、修復してみましょうか」
「大丈夫です。授業で使うものじゃないし」
うそじゃない。提出もしないし、誰にも見せるつもりもない。この世から消えたって、なにひとつ困らないものだ。
「大丈夫じゃないでしょう」
「え?」
「大切なものなのではないですか?」
どうして。言葉に出して助けを求めても、声を受け取ってくれない人もいる。それなのに、この人はどうしてわかってくれるのだろう。
「開いてもいいですか」
直樹は黙ってうなずいた。
「素敵な絵ですね」
中身を見た山津が微笑んだ。ノートの中には、直樹が描きためた絵が何枚もある。昔から、絵を描くことだけは好きだった。嫌なことを忘れたいときや、どうにもならない気持ちを吐き出したいとき、向かうのはいつも紙の上だ。
「絵が描けたところで、なんにもならないですよ」
せっかく褒めてくれたのに、口から出るのはそんなマイナスな言葉だった。素直にありがとうと言えればいいのに、深く根づいてしまった卑屈な心が邪魔をしてくる。
「そうですか」
そんなことないよ、とは言わないのが意外だ。
山津はそこからなにも聞いてこなかった。ただ黙ったまま、真剣な表情でノートの汚れを落とそうとしているだけだった。
グラウンドから、サッカー部のかけ声が聞こえてくる。それに混じって、ときどきノートのページがめくられる音がした。ここ最近で、なぜか一番心が落ち着いている気がする。学校という空間で、こんな気持ちになったのはいつ以来だろうか。もう、思い出せない。
「僕が悪いんです、多分」
「多分、とは」
「僕がいじめにあうのは、これが初めてじゃないから」