「最低」
「信じらんない」
それに続いて、ほかの友達たちも怒り交じりの声を発した。
「沙月、大丈夫?」
目に涙をためた詩音が、顔をのぞきこんできた。ほかの子たちも、泣いてもいない沙月の背中をさすったり、慰めの言葉をかけたりしてくる。
みんなそろって、勝手に沙月の胸の中を想像して、勝手に悲しんで、勝手に怒っている。まるで自分が傷つけられたみたいだ。
少しの間様子を見ていた若い女性の担任がやっと、みんなに席につくようにと促した。それからいずみに一言だけ告げた。
「人の気持ちをもう少し考えなさい」
いずみはピンときていない様子だった。
「絶対わかってないよ、あいつ」
教室から聞こえてきた冷たい言葉に、担任はなにも言わない。代わりに大きくため息をついただけだった。
「なんかごめんね」
隣に座った彼にだけ聞こえるように伝えた。冗談の一つでも言って、笑い飛ばしてくれるだろう。そう思っていたのに、このときだけは「いや別に」とそっけなく言うだけだった。
こんなときこそ絡んでくればいいのにと理不尽にも思ってしまった。この会話が、彼と沙月の最後のものになった。あれほど絡んでいたのがうそみたいに、彼との距離は遠くなったのだ。
「沙月、外で食べようよ」
お昼休み、いつものようにお弁当を机の上に取り出したタイミングで、詩音に声をかけられた。普段なら近くの机をつけて、いずみと詩音も含めた五人グループで食事をとる。あと二人は、教室の入り口でこちらを見て手招きをしている。
選択を迫られている。自分をかばってくれる多くの友達と、クラス中から非難されることになったいずみ。どちらを取ればこの平穏な生活を守れるのかは明らかだ。
「うん。いいよ」
お弁当を持って立ちあがる。いずみの顔を見ることができなかった。
二択だと思いこんでいた。けれどそのふたつを繋げることが、自分にはできたかもしれないのに。
「最低だよね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で詩音が言った。
「うん」
はじめていずみをかばわなかった。いずみはきっと、自分たちの行動が理解できていないだろう。悪意なく人を傷つけてしまうことは、悪意を持って人を傷つけるよりも、きっとずっと罪深い。反省を促すことさえできないのだから。
いずみを見なくてもわかる。いまごろきょとんとした顔で立ちつくしているはずだ。
仲間外れという言葉が浮かんだのを頭から追いだした。悪いのは向こうだ。批判されるようなことをした人間を避けてなにが悪い。そう自分に言い聞かせた。
いずみを避ける日が、しばらく続いた。いずみは、自分がなにかをしてしまったことには気づいていたようだ。けれどそれがなにかはわかっていなかった。そのことが、またみんなの気分を害して、いずみはクラスで完全に孤立した。
あれは、火事みたいなものだと思う。段差に足を引っかけたいずみの持っていたバケツの水が、偶然自分にかかってしまった。それはとても寒い日で、それを見ていた友達が、冷えた体を温めようと小さな火を起こしてくれた。それを見た別の誰かが、もっと火を大きくさせるために薪を入れてくれた。
そのうちに火はだんだん広がっていく。そして、火事と思われるくらいになってしまった。体はもうすっかり乾いて、あとから来た人たちは、どうして火が起こっているのかわかっていない。
ただ一人、所在なさげに立っているいずみを見て、みんな勝手に思い込む。あの子がこの火事の原因なのだと。大きくなりすぎてしまった火を消す手段は、そのときにはもうわからない。
「いずみのこと、もう許してあげようと思う」
沙月が同じグループのメンバーにそうに伝えたのは、あの事件からひと月ほど経ったころだ。いずみを完全に見えないもののように扱うことにもみんな慣れていた。それはもともと一緒にいたメンバーだけでなく、教室のほかの人たちもそうだ。ただ一人、沙月だけを除いて。
「なんで?」
手を洗っている詩音が、女子トイレの鏡越しに沙月を見た。不機嫌そうな声に、沙月は自分が悪い提案をしてしまった気にさせられる。
「これ以上はかわいそうだと思う。いずみの性格を考えたら、あれは悪気があったわけじゃないし」
「悪気がなければなにをしても許されるの?」
「それは違うけど」
「でしょ」
蛇口を閉めた詩音が振り返る。その目は鏡越しよりもずっと鋭く沙月をとらえた。
「それに、かわいそうなんかじゃないよ。だって先にさっちゃんのこと傷つけたのはあの子の方じゃん」
「そうだよ。さっちゃんだってあいつのこと最低だって思ったでしょ」
いつからか、いずみのことを名前で呼ぶ人はいなくなっていた。あの子、あいつと呼び方が変わっただけなのに、いずみの存在すら認められていないみたいだ。
「ねぇさっちゃん」
詩音が沙月の頬を両手で包み込んだ。洗ったばかりの手はとても冷たくて、触れられた場所を中心に凍ってしまうのではないかと思うくらいだった。
「さっちゃんは優しいから怒れないんだね。だからみんな、代わりに怒ってくれているんだよ。これは、さっちゃんのためなんだから。わかるよね?」
わからない。
それが本当の答えだった。でもそう言わせない空気がそこにはあった。あなたのためという言葉は、相手から反論の権利を奪う呪いみたいだ。一緒にいた二人も、詩音の言葉に同意するようにうなずいている。
また流されそうになっている自分がいる。自分が流されてしまったことで、今の状況を作り出しているというのに。
私はあの日からなにひとつ変われていない。
悔しくて、情けなくて、怖くて、視界が涙でにじむ。
「信じらんない」
それに続いて、ほかの友達たちも怒り交じりの声を発した。
「沙月、大丈夫?」
目に涙をためた詩音が、顔をのぞきこんできた。ほかの子たちも、泣いてもいない沙月の背中をさすったり、慰めの言葉をかけたりしてくる。
みんなそろって、勝手に沙月の胸の中を想像して、勝手に悲しんで、勝手に怒っている。まるで自分が傷つけられたみたいだ。
少しの間様子を見ていた若い女性の担任がやっと、みんなに席につくようにと促した。それからいずみに一言だけ告げた。
「人の気持ちをもう少し考えなさい」
いずみはピンときていない様子だった。
「絶対わかってないよ、あいつ」
教室から聞こえてきた冷たい言葉に、担任はなにも言わない。代わりに大きくため息をついただけだった。
「なんかごめんね」
隣に座った彼にだけ聞こえるように伝えた。冗談の一つでも言って、笑い飛ばしてくれるだろう。そう思っていたのに、このときだけは「いや別に」とそっけなく言うだけだった。
こんなときこそ絡んでくればいいのにと理不尽にも思ってしまった。この会話が、彼と沙月の最後のものになった。あれほど絡んでいたのがうそみたいに、彼との距離は遠くなったのだ。
「沙月、外で食べようよ」
お昼休み、いつものようにお弁当を机の上に取り出したタイミングで、詩音に声をかけられた。普段なら近くの机をつけて、いずみと詩音も含めた五人グループで食事をとる。あと二人は、教室の入り口でこちらを見て手招きをしている。
選択を迫られている。自分をかばってくれる多くの友達と、クラス中から非難されることになったいずみ。どちらを取ればこの平穏な生活を守れるのかは明らかだ。
「うん。いいよ」
お弁当を持って立ちあがる。いずみの顔を見ることができなかった。
二択だと思いこんでいた。けれどそのふたつを繋げることが、自分にはできたかもしれないのに。
「最低だよね」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で詩音が言った。
「うん」
はじめていずみをかばわなかった。いずみはきっと、自分たちの行動が理解できていないだろう。悪意なく人を傷つけてしまうことは、悪意を持って人を傷つけるよりも、きっとずっと罪深い。反省を促すことさえできないのだから。
いずみを見なくてもわかる。いまごろきょとんとした顔で立ちつくしているはずだ。
仲間外れという言葉が浮かんだのを頭から追いだした。悪いのは向こうだ。批判されるようなことをした人間を避けてなにが悪い。そう自分に言い聞かせた。
いずみを避ける日が、しばらく続いた。いずみは、自分がなにかをしてしまったことには気づいていたようだ。けれどそれがなにかはわかっていなかった。そのことが、またみんなの気分を害して、いずみはクラスで完全に孤立した。
あれは、火事みたいなものだと思う。段差に足を引っかけたいずみの持っていたバケツの水が、偶然自分にかかってしまった。それはとても寒い日で、それを見ていた友達が、冷えた体を温めようと小さな火を起こしてくれた。それを見た別の誰かが、もっと火を大きくさせるために薪を入れてくれた。
そのうちに火はだんだん広がっていく。そして、火事と思われるくらいになってしまった。体はもうすっかり乾いて、あとから来た人たちは、どうして火が起こっているのかわかっていない。
ただ一人、所在なさげに立っているいずみを見て、みんな勝手に思い込む。あの子がこの火事の原因なのだと。大きくなりすぎてしまった火を消す手段は、そのときにはもうわからない。
「いずみのこと、もう許してあげようと思う」
沙月が同じグループのメンバーにそうに伝えたのは、あの事件からひと月ほど経ったころだ。いずみを完全に見えないもののように扱うことにもみんな慣れていた。それはもともと一緒にいたメンバーだけでなく、教室のほかの人たちもそうだ。ただ一人、沙月だけを除いて。
「なんで?」
手を洗っている詩音が、女子トイレの鏡越しに沙月を見た。不機嫌そうな声に、沙月は自分が悪い提案をしてしまった気にさせられる。
「これ以上はかわいそうだと思う。いずみの性格を考えたら、あれは悪気があったわけじゃないし」
「悪気がなければなにをしても許されるの?」
「それは違うけど」
「でしょ」
蛇口を閉めた詩音が振り返る。その目は鏡越しよりもずっと鋭く沙月をとらえた。
「それに、かわいそうなんかじゃないよ。だって先にさっちゃんのこと傷つけたのはあの子の方じゃん」
「そうだよ。さっちゃんだってあいつのこと最低だって思ったでしょ」
いつからか、いずみのことを名前で呼ぶ人はいなくなっていた。あの子、あいつと呼び方が変わっただけなのに、いずみの存在すら認められていないみたいだ。
「ねぇさっちゃん」
詩音が沙月の頬を両手で包み込んだ。洗ったばかりの手はとても冷たくて、触れられた場所を中心に凍ってしまうのではないかと思うくらいだった。
「さっちゃんは優しいから怒れないんだね。だからみんな、代わりに怒ってくれているんだよ。これは、さっちゃんのためなんだから。わかるよね?」
わからない。
それが本当の答えだった。でもそう言わせない空気がそこにはあった。あなたのためという言葉は、相手から反論の権利を奪う呪いみたいだ。一緒にいた二人も、詩音の言葉に同意するようにうなずいている。
また流されそうになっている自分がいる。自分が流されてしまったことで、今の状況を作り出しているというのに。
私はあの日からなにひとつ変われていない。
悔しくて、情けなくて、怖くて、視界が涙でにじむ。