帰りのホームルームが終わると、それぞれ荷物を持って立ちあがり始める。
部活やバイトに家。向かうところは様々だけど、みんな授業中よりもずっと元気になっている。北野沙月は、空気が入れ替わった教室の真ん中の席で、机の中に置いていく教科書を選んでいた。
後ろから聞こえた、さっちゃん、と自分の名前を呼ぶ声に振り返る。クラスで一番仲のいい詩音がカバンを持って立っていた。
「それ、全部持って帰るの?」
詩音の視線が、教科書を持った沙月の手に落とされる。
「うん、一応」
「えらいねぇ。わたしなんか筆箱とお弁当箱しか入れてないよ」
詩音は薄っぺらいカバンを叩いた。男性アイドルの写真が入ったキーホルダーが揺れている。
それを見ていたとき、隣の席の男子二人の話が聞こえてきた。
「自業自得って言うんだよ、それ」
隣の席の男子二人の話が聞こえてきた。
「うるせぇ! 自分でもわかってるよ」
もともとずっと一人でいた松野が、根岸に肩を小突かれた。松野は大げさに痛がっている。ずっと前からの友達みたいにじゃれていて、その光景がとても羨ましく思えた。
数か月前、根岸の財布がなくなるという事件が起こった。そのとき、当時孤立していた松野が疑われたけれど、結局根岸の不注意だったことがのちにわかった。平謝りする根岸を、まわりが見ていてもびっくりするくらいに、松野はあっさりと許した。
それからというもの、松野は根岸のグループと行動をともにしている。松野が冗談を言うことも、意外と笑い声が高いことも、最近まで知らなかった。
ごめんね。
いいよ。
昔は使えていたはずの仲直りの呪文。
それを使えなくなってしまったのがいつからだったのか、今となってはもう思い出せない。
もしもあのとき使えていたら、松野と根岸みたいに話せていたのだろうか。
「さっちゃん?」
詩音に顔を覗き込まれてはっとした。
「ごめんごめん、ぼーっとしてた。帰ろうか」
肩に荷物の重さが一気にかかって、バランスを崩しかけてしまった。やっぱり詰めこみすぎたのかもしれない。古典の資料集は置いて帰ろうかと思ったけれど、歩き始めた詩音を呼び止めることは気が引けた。
「じゃあまた明日」
沙月の自宅の最寄り駅の三つ前の駅で、詩音は手を振りながら電車をおりる。混雑しているホームの中で、器用にスマホとパスケースを取り出す詩音の後ろ姿を見送った。
話し相手がいなくなった車内は、急に退屈になってしまう。ぽっかり空いてしまった脳内のスペースを埋めるように、松野が根岸に言っていた言葉が、ふとよみがえってきた。
自業自得。
これほど冷たいのに便利な言葉はほかにない。その言葉一つで、助けを求めることさえ許されないのだと突きつけているみたいだ。
あの子に向けられた言葉もそうだった。
決められた集会の日でもないのに、集まるように指示された体育館。そんなときは大抵全校生徒がまとめて説教されるのがお決まりだった。
どうせ今日もそうだろう。生徒たちの面倒な雰囲気とは違って、おとなたちが漂わせていたのは、戸惑いの空気だった。
ようやく始まった集会。制服のスカートについたしわに気がついて、いい暇つぶしを見つけることができたと思っていた。壇上に立った校長は、暑くもないのに何度もハンカチで額の汗をぬぐっていた。近くにいた男子が、校長の光る頭を、小さな声でバカにしていた。それでも高校生なのかと、男子の幼稚さに呆れたときだ。
「一年一組の片岡いずみさんが、昨晩自宅でお亡くなりになりました」
周りの音が、一瞬で遠くなった。それなのに、自分の心臓の音だけが、ひどく大きく聞こえてくる。校長がなにかを話し続けていたけれど、知らない国の言葉を聞いているときみたいに、頭の中を通り過ぎていく。
ほかのクラスとは明らかに違う空気の一年一組の列を、ほかのクラスの人たちは珍しいものを見るときのような、興奮まじりの視線を送ってきた。
「大丈夫?」
当時も同じクラスだった詩音に肩を叩かれるまで、集会が終わったことにも気づかなかった。
「顔色悪いよ。保健室行く?」
そういう詩音も、表情のこわばりを隠せていなかった。
平気、とかすれる声で答えるのが精いっぱいだった。
入学してからもう七か月が過ぎていた。教室の空気にも、クラスメイトの雰囲気にもすっかり慣れていたはずだ。それなのに、初めて来た場所のように、教室での正しい動き方をお互いに探っているみたいだった。
「同じクラスで自殺があったって知られたら、受験とかに影響すんのかな」
口を開いたのは、いずみと全くと言っていいほど関わりのなかった男子だった。校長が避けていた言葉を、彼はなんでもないことのように口にした。
「最低」
クラスで一番気が強い比奈が彼を睨みつけた。
「よく今そんなこと言えるよね」
忌々しいものを見るように、せっかくのきれいな顔がゆがんでいた。
「は? だって事実だろ。ってか女子が誰も片桐と一緒にいなかったからこんなことになったんじゃないの」
「私たちのせいにしないでよ!」
ヒステリックな声をあげながら、比奈がそばにあったペンケースを投げつけた。どこを見ていいのか、なにを話せばいいのか、どんな顔をしたらいいのかも、あのとき教室にいた全員わからなかったのだと思う。床に散らばったペンを見つめることしかできなかった。
そんな中で、最初に動いたのは詩音だった。細く白い指で、落ちたペンを拾っていく。
「誰も悪くないよ」
静まり返った教室で、詩音ははっきりと言った。
「いずみの自業自得だよ。誰も悪くない」
自分に言い聞かせているようだった。だけど、あの場にいた全員、詩音の言葉を受け入れた。そうすることでしか、心を保てなかったから。
違うよ、詩音。
ペンケースを比奈に返す詩音の背中を見ながら思った。
いずみを殺したのは、私だ。
部活やバイトに家。向かうところは様々だけど、みんな授業中よりもずっと元気になっている。北野沙月は、空気が入れ替わった教室の真ん中の席で、机の中に置いていく教科書を選んでいた。
後ろから聞こえた、さっちゃん、と自分の名前を呼ぶ声に振り返る。クラスで一番仲のいい詩音がカバンを持って立っていた。
「それ、全部持って帰るの?」
詩音の視線が、教科書を持った沙月の手に落とされる。
「うん、一応」
「えらいねぇ。わたしなんか筆箱とお弁当箱しか入れてないよ」
詩音は薄っぺらいカバンを叩いた。男性アイドルの写真が入ったキーホルダーが揺れている。
それを見ていたとき、隣の席の男子二人の話が聞こえてきた。
「自業自得って言うんだよ、それ」
隣の席の男子二人の話が聞こえてきた。
「うるせぇ! 自分でもわかってるよ」
もともとずっと一人でいた松野が、根岸に肩を小突かれた。松野は大げさに痛がっている。ずっと前からの友達みたいにじゃれていて、その光景がとても羨ましく思えた。
数か月前、根岸の財布がなくなるという事件が起こった。そのとき、当時孤立していた松野が疑われたけれど、結局根岸の不注意だったことがのちにわかった。平謝りする根岸を、まわりが見ていてもびっくりするくらいに、松野はあっさりと許した。
それからというもの、松野は根岸のグループと行動をともにしている。松野が冗談を言うことも、意外と笑い声が高いことも、最近まで知らなかった。
ごめんね。
いいよ。
昔は使えていたはずの仲直りの呪文。
それを使えなくなってしまったのがいつからだったのか、今となってはもう思い出せない。
もしもあのとき使えていたら、松野と根岸みたいに話せていたのだろうか。
「さっちゃん?」
詩音に顔を覗き込まれてはっとした。
「ごめんごめん、ぼーっとしてた。帰ろうか」
肩に荷物の重さが一気にかかって、バランスを崩しかけてしまった。やっぱり詰めこみすぎたのかもしれない。古典の資料集は置いて帰ろうかと思ったけれど、歩き始めた詩音を呼び止めることは気が引けた。
「じゃあまた明日」
沙月の自宅の最寄り駅の三つ前の駅で、詩音は手を振りながら電車をおりる。混雑しているホームの中で、器用にスマホとパスケースを取り出す詩音の後ろ姿を見送った。
話し相手がいなくなった車内は、急に退屈になってしまう。ぽっかり空いてしまった脳内のスペースを埋めるように、松野が根岸に言っていた言葉が、ふとよみがえってきた。
自業自得。
これほど冷たいのに便利な言葉はほかにない。その言葉一つで、助けを求めることさえ許されないのだと突きつけているみたいだ。
あの子に向けられた言葉もそうだった。
決められた集会の日でもないのに、集まるように指示された体育館。そんなときは大抵全校生徒がまとめて説教されるのがお決まりだった。
どうせ今日もそうだろう。生徒たちの面倒な雰囲気とは違って、おとなたちが漂わせていたのは、戸惑いの空気だった。
ようやく始まった集会。制服のスカートについたしわに気がついて、いい暇つぶしを見つけることができたと思っていた。壇上に立った校長は、暑くもないのに何度もハンカチで額の汗をぬぐっていた。近くにいた男子が、校長の光る頭を、小さな声でバカにしていた。それでも高校生なのかと、男子の幼稚さに呆れたときだ。
「一年一組の片岡いずみさんが、昨晩自宅でお亡くなりになりました」
周りの音が、一瞬で遠くなった。それなのに、自分の心臓の音だけが、ひどく大きく聞こえてくる。校長がなにかを話し続けていたけれど、知らない国の言葉を聞いているときみたいに、頭の中を通り過ぎていく。
ほかのクラスとは明らかに違う空気の一年一組の列を、ほかのクラスの人たちは珍しいものを見るときのような、興奮まじりの視線を送ってきた。
「大丈夫?」
当時も同じクラスだった詩音に肩を叩かれるまで、集会が終わったことにも気づかなかった。
「顔色悪いよ。保健室行く?」
そういう詩音も、表情のこわばりを隠せていなかった。
平気、とかすれる声で答えるのが精いっぱいだった。
入学してからもう七か月が過ぎていた。教室の空気にも、クラスメイトの雰囲気にもすっかり慣れていたはずだ。それなのに、初めて来た場所のように、教室での正しい動き方をお互いに探っているみたいだった。
「同じクラスで自殺があったって知られたら、受験とかに影響すんのかな」
口を開いたのは、いずみと全くと言っていいほど関わりのなかった男子だった。校長が避けていた言葉を、彼はなんでもないことのように口にした。
「最低」
クラスで一番気が強い比奈が彼を睨みつけた。
「よく今そんなこと言えるよね」
忌々しいものを見るように、せっかくのきれいな顔がゆがんでいた。
「は? だって事実だろ。ってか女子が誰も片桐と一緒にいなかったからこんなことになったんじゃないの」
「私たちのせいにしないでよ!」
ヒステリックな声をあげながら、比奈がそばにあったペンケースを投げつけた。どこを見ていいのか、なにを話せばいいのか、どんな顔をしたらいいのかも、あのとき教室にいた全員わからなかったのだと思う。床に散らばったペンを見つめることしかできなかった。
そんな中で、最初に動いたのは詩音だった。細く白い指で、落ちたペンを拾っていく。
「誰も悪くないよ」
静まり返った教室で、詩音ははっきりと言った。
「いずみの自業自得だよ。誰も悪くない」
自分に言い聞かせているようだった。だけど、あの場にいた全員、詩音の言葉を受け入れた。そうすることでしか、心を保てなかったから。
違うよ、詩音。
ペンケースを比奈に返す詩音の背中を見ながら思った。
いずみを殺したのは、私だ。