山津が家に飛び込んできた日から、ちょうど一か月が経った。
徐々に冬が近づいているのを感じる。
あの家を出て、今は母親と二人で小さなアパートの一室を借りて生活していた。山津があの日、母親に手渡した名刺は、家庭内暴力で悩んでいる人を助ける団体のものだった。その人たちの手を借りながらも、新しい生活を送ることができている。
父親とは会っていないが、あの人もまた専門家の治療を受けていると聞いた。なんとなく聞いた話によると、職場でかなりのストレスに悩まされていたらしい。ふと、山津の言ったイルカの話がよぎった。
「翔馬」
登校のため駅に向かおうとしたとき、頭上から声が聞こえた。振り返ると、アパートの二階のベランダで、母親が手を振っているのが見えた。
「行ってらっしゃい」
小学生かよ、と心の中で突っ込んだ。傷のない顔で笑っている母親を見るのはいつ以来だろうか。無視をするのは心苦しくて、翔馬は小さく手をあげておいた。
あれから教室で翔馬に話しかけてくる人はほとんどいない。ときどき、暇をもてあました国木が、思い出したかのように話をふってくるくらいだ。自分のしたことを考えれば、当然のことだと思う。
「堤君」
まだ夕方の五時だというのに薄暗くなった校庭を門に向かって歩いていると、後ろから声を掛けられた。山津が相変わらずの笑みを浮かべて立っている。
「どうですか、あれから」
あれ、というのが家のことなのか、教室でのことを指しているのかははっきりとはわからない。でも、そのどちらも前と比べればましだろう。
「まぁまぁです」
「そうですか」
翔馬の返事に、山津はゆっくりと頷いた。
「あの、先生」
「なんでしょう」
ずっと気になっていたことがあった。担任の山本に聞くこともできたけれど、なぜか山津に相談したかった。
「少し前までクラスにいた高橋って覚えてますか」
「えぇ。もちろん」
「あいつ、今どこにいるのか知ってますか」
「どうしてそんなことを聞くのですか」
「ちゃんと、謝りたいんです」
自分の弱さの矛先を向けるべきではなかった。向けられたときの痛みは、よくわかっていたはずなのに。いまさら遅いかもしれない。それでも、このままでいることはきっとよくない。
「そろそろそう言い出すのではないかと思っていました」
翔馬にとって、過去の自分の犯した罪と向き合うことは勇気のいることだった。それを山津もわかってくれている。
そう思ったのに、山津から返ってきたのは、予想とは違った答えだった。
「それはできません」
せっかく踏み出した足を振り払われたみたいだった。
「どうしてですか」
「高橋君がそれを望んでいないからです」
「高橋から聞いたんですか」
「えぇ、いまでもたまに様子を教えてくれるんですよ」
知らなかった。自分以外にも深く関わっている生徒がいたなんて。図々しくもそれを少し面白くないと思ってしまう自分がいることに気づく。
「高橋と会う機会をつくってもらえませんか。それが無理なら俺が直接連絡を」
「彼は君とはもう一切関わりたくないそうです」
山津に言葉をさえぎられた。
「謝って終わりにしたいと思うのは、非常に傲慢で身勝手なことです。謝られたからといって許せるものではない気持ちは、君もよくわかるのではないですか」
殺してやるとまで思った父親の顔が、頭の中によぎった。
どれだけ謝られても、どれだけあいつが反省しようとも、あいつを憎み続けるだろう。その感情は、過去に自分が傷つけてきた人たちが、こっちに向けている感情ときっと同じだ。父親を許せない自分が、誰かに許してもらおうなどという考えが通るはずがないことは痛いくらいにわかる。
「だったら俺は、どうしたらいいんですか」
謝ることさえ許されないならば、できることなんてない。これからの生き方に正解があるなら教えてほしい。
「それは君が探していかなければいけないことです」
山津は答えを教えてはくれなかった。あの日差し伸べてくれた手が、まるで夢のようだった。
「答えのない答えを、一生探し続けるしかありません。そして自分が傷つけた相手のことを絶対に忘れてはいけません」
決して許してもらうことなく、ただ自分の罪とこの先ずっと向き合い続けなければいけない。
「そんな生き方、つらくないんですか」
想像するだけで、息が苦しくなる。
「つらいですよ、とても」
まるで、自分が今そうやって生きているみたいな言い方だった。
徐々に冬が近づいているのを感じる。
あの家を出て、今は母親と二人で小さなアパートの一室を借りて生活していた。山津があの日、母親に手渡した名刺は、家庭内暴力で悩んでいる人を助ける団体のものだった。その人たちの手を借りながらも、新しい生活を送ることができている。
父親とは会っていないが、あの人もまた専門家の治療を受けていると聞いた。なんとなく聞いた話によると、職場でかなりのストレスに悩まされていたらしい。ふと、山津の言ったイルカの話がよぎった。
「翔馬」
登校のため駅に向かおうとしたとき、頭上から声が聞こえた。振り返ると、アパートの二階のベランダで、母親が手を振っているのが見えた。
「行ってらっしゃい」
小学生かよ、と心の中で突っ込んだ。傷のない顔で笑っている母親を見るのはいつ以来だろうか。無視をするのは心苦しくて、翔馬は小さく手をあげておいた。
あれから教室で翔馬に話しかけてくる人はほとんどいない。ときどき、暇をもてあました国木が、思い出したかのように話をふってくるくらいだ。自分のしたことを考えれば、当然のことだと思う。
「堤君」
まだ夕方の五時だというのに薄暗くなった校庭を門に向かって歩いていると、後ろから声を掛けられた。山津が相変わらずの笑みを浮かべて立っている。
「どうですか、あれから」
あれ、というのが家のことなのか、教室でのことを指しているのかははっきりとはわからない。でも、そのどちらも前と比べればましだろう。
「まぁまぁです」
「そうですか」
翔馬の返事に、山津はゆっくりと頷いた。
「あの、先生」
「なんでしょう」
ずっと気になっていたことがあった。担任の山本に聞くこともできたけれど、なぜか山津に相談したかった。
「少し前までクラスにいた高橋って覚えてますか」
「えぇ。もちろん」
「あいつ、今どこにいるのか知ってますか」
「どうしてそんなことを聞くのですか」
「ちゃんと、謝りたいんです」
自分の弱さの矛先を向けるべきではなかった。向けられたときの痛みは、よくわかっていたはずなのに。いまさら遅いかもしれない。それでも、このままでいることはきっとよくない。
「そろそろそう言い出すのではないかと思っていました」
翔馬にとって、過去の自分の犯した罪と向き合うことは勇気のいることだった。それを山津もわかってくれている。
そう思ったのに、山津から返ってきたのは、予想とは違った答えだった。
「それはできません」
せっかく踏み出した足を振り払われたみたいだった。
「どうしてですか」
「高橋君がそれを望んでいないからです」
「高橋から聞いたんですか」
「えぇ、いまでもたまに様子を教えてくれるんですよ」
知らなかった。自分以外にも深く関わっている生徒がいたなんて。図々しくもそれを少し面白くないと思ってしまう自分がいることに気づく。
「高橋と会う機会をつくってもらえませんか。それが無理なら俺が直接連絡を」
「彼は君とはもう一切関わりたくないそうです」
山津に言葉をさえぎられた。
「謝って終わりにしたいと思うのは、非常に傲慢で身勝手なことです。謝られたからといって許せるものではない気持ちは、君もよくわかるのではないですか」
殺してやるとまで思った父親の顔が、頭の中によぎった。
どれだけ謝られても、どれだけあいつが反省しようとも、あいつを憎み続けるだろう。その感情は、過去に自分が傷つけてきた人たちが、こっちに向けている感情ときっと同じだ。父親を許せない自分が、誰かに許してもらおうなどという考えが通るはずがないことは痛いくらいにわかる。
「だったら俺は、どうしたらいいんですか」
謝ることさえ許されないならば、できることなんてない。これからの生き方に正解があるなら教えてほしい。
「それは君が探していかなければいけないことです」
山津は答えを教えてはくれなかった。あの日差し伸べてくれた手が、まるで夢のようだった。
「答えのない答えを、一生探し続けるしかありません。そして自分が傷つけた相手のことを絶対に忘れてはいけません」
決して許してもらうことなく、ただ自分の罪とこの先ずっと向き合い続けなければいけない。
「そんな生き方、つらくないんですか」
想像するだけで、息が苦しくなる。
「つらいですよ、とても」
まるで、自分が今そうやって生きているみたいな言い方だった。