「くそっ、覚えてろ」

 悪役さながらのセリフを吐いて、父親は普段使っているカバンだけを持って家を飛びだしてしまった。その姿があまりにもダサく、自分が今まで虐げられていたことさえ信じられなかった。

「大丈夫ですか」

 大丈夫、ではないのかもしれない。けれど今は体の痛みよりも、ずっと気になることがある。

「どうしてここに」

「山本先生には、自宅への電話はやめるように言ったのですが、事態の重さまでは伝えきれなかったようです。それに気づいてすぐにこちらに来たのですが遅くなってしまいました。そのせいで君が傷つくことになってしまい、申し訳ありません」

「そんなの放っておけばよかっただろ。担任でもないのに、あんたに関係ない。一人で飛び込んできて馬鹿じゃねぇの」

 わからない。どうして山津がここまでするのか、何度考えても答えが見つからない。

「君が助けを求めたんでしょう」

 なんでもないことのように、山津は小さく笑った。

 いまだにこの状況を信じられていない自分の方がおかしいみたいだ。

「やっぱり君はイルカでした」

 山津は昼間も自分のことをイルカだと話していた。それはいじめをするからだという理由だけだと思っていた。けどそれだけじゃなかったのだ。

「ちゃんと声をあげられるじゃないですか」

 山津は、自分の声を受け取ってくれた。自分の声が、初めて誰かに受け取ってもらえたのだとようやく気づいた。

「あぁ、誤解のないように言っておきますが、イルカには声帯がないので、のどから声を出しているわけではないんですよ。頭の上にある呼吸孔を使っています」

 山津は自分の頭頂部を指さした。その仕草の奇妙さに、笑いが込み上げてきた。

 やっぱりこいつはおかしい。

 生徒の家の窓ガラスを破って自宅に入りこんだあげくに、その父親を殴るなんてありえない。立場だって危うくなるかもしれない。そんなこと、自分にだってわかる。教師として、いや、人としてもめちゃくちゃな行動だ。

 けれど嬉しいと思ってしまう自分がいる。もっと早くに出会いたかったと思ってしまう自分がいる。なりふり構わず救いに来てくれる人が存在するなんて知らなかった。今までに流したことのない種類の涙が傷に染みる。

 でも、嫌じゃない痛みだった。この痛みを忘れたくないと思った。

「お母さん」

 山津が母親の方を向いた。

「翔馬君は声をあげました。次はあなたが声をあげる番です」

ジャケットの胸ポケットから、一枚の名刺を取り出した。

「ここにあなたを助けてくれる人がいます。今からでも、動き出すことを手伝ってくれるはずです」

 名刺に目を落とした母親は、震える声で「ありがとうございます」とだけ答えた。

 小さな声だったけれど、そこには確かに希望が含まれているのを感じた。

 割れたガラスの隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がした。