「誰だ」

 父親が煩わしげに聞いてきた。

「学校の、先生」

 たった一言答えるだけでも体の至るところが痛んだ。

「担任か?」

「違う」

「担任でもないやつがなんで家にまで来るんだ」

 そんなのこっちが聞きたいよ。

 山津がまたインターホンを鳴らす。この状況を見られるのはさすがにまずいとおもったんだろう。父親は息を殺して動かない。また、インターホンが鳴る。

 なんの反応もないことに山津はとうとう諦めたようで、背を向けて帰っていくのが見えた。山津はいったいなにをしに来たんだろう。昼間に自分を連れて職員室を出た理由も、訳のわからないイルカの例えの真意も、なにひとつわからないままだ。

 ──たとえ暗闇の中でも、音は仲間に届けることができるんですよ。

 ふと山津の言葉が頭によぎった。外から足音が聞こえてきた。玄関のインターホンから離れた山津は、きっとそこにいるはずだ。自分の声が届く自信なんてない。それなのに、山津ならどんなに小さな声でも、受け取ってくれるのではないかと思ってしまった。

 また無駄な期待なのかもしれない。
 でももう一度だけ、誰かに救いの手を求めることを許してほしい。

「助けてください!」

 自分でもびっくりするくらいに大きな声だった。はっとした様子の父親に口を強い力で塞がれる。大きな手のひらに鼻まで押さえられて息ができない。

 本当に、殺されるかもしれない。

 徐々に遠くなっていく意識の中で、突然耳元でガラスの割れる大きな音がした。それと同時に、父親の手が離れる。一気に吸い込んだ空気が全身に行きわたるのを感じる。フローリングには、割れた植木鉢と茶色い土が広がっていた。

 なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。

「大丈夫ですか?」

 声のした方向に顔を向けた。

「なんで」

 すぐそばに、山津が膝をついていた。すぐ後ろの割れた掃き出し窓が、大きく開いている。窓を割って入ってきたとようやくわかった。自分で助けを求めたくせに、そこまでする山津が信じられない。

「どういうおつもりですか」

 父親が、怒りを押し殺した声で言う。

「こんなことをして許されると思っているんですか」

「それはこちらのセリフですよ」

 父親の圧に、山津はひるむ様子を全く見せない。

「この状況をどう説明するのですか」

「これはしつけです。あなたに関係ない」

「しつけ、ですか」

 山津がゆっくりと立ちあがる。

「暴力でしかルールを説けないあなたはかわいそうな人ですね」

「かわいそう?」

「えぇ、とても」

 馬鹿にされることをなによりもこの人は嫌う。初対面の相手にかわいそう、なんて言われて黙っていられるわけがない。父親の手が山津の胸倉をつかんだ。

「俺を馬鹿にするな!」

 殴られる。

 巻き込んでしまったことを後悔した次の瞬間、床に転がったのは山津ではなく父親の方だった。

 この場にいる誰もが、今起こったことを理解できなかった。

「失礼。つい反射で」

 その中で山津だけはいつものひょうひょうとした態度を崩さない。

「あんた自分の立場がわかっているのか」

 震える声で父親が山津を指さした。

「おい、警察を呼べ」

「私は構いませんが、いいんですか。この状況を見られてまずいのは私だけじゃないと思いますが」

 父親がぐっと息をつまらせた。山津が床に座り込んだままの父親の前にしゃがみこむ。

「私がこの状況を話せばどうなるでしょうね」

「なにが目的だ」

 このときばかりは父親に同意だ。山津の目的がわからないのは、翔馬も同じだった。

「目的、ですか」

 山津は首をひねった。

「強いて言えば自分のため、ですかね」

 答えを聞いても、結局なにひとつ理解はできなかった。

 外が次第に騒がしくなってくる。物音を聞きつけた近所の人が様子を見に来たらしい。

 それに気づいた父親が、うなりながら乱暴に髪をかきむしった。