結局帰ることのできる場所は一つしかない。

 自分の無力さを感じながら、外観だけは立派な家に戻る。翔馬の顔を見た瞬間に、母親の表情がこわばった。鏡を見ていなかったから気づかなかったが、どうやら見た目に出るくらいになっているらしい。

「体育でサッカーしてたらボールぶつかってさ」

 母親に原因を尋ねられるよりも先にうそでごまかした。そして後悔した。これで学校から連絡が来たら終わりだな。

「冷やしておいた方がいいんじゃない」

 冷蔵庫から取り出した保冷剤を、ガーゼに包んで渡してくれた。その優しさに、頬よりも胸の奥の方がずっと痛んだ。

 明日からは田中に宿題をやらせるのは不可能だろう。今日出ているのは、忘れ物にうるさい清水からのものだ。仕方なく問題集にシャーペンをはしらせる。

 小学生のころから、勉強は努力しなくても並み以上の点数が取れていた。教科書で調べればなんとなく解き方がわかる。学力の高い父親の遺伝だと思うと忌々しい。適当に完成させたとき、一階から固定電話の音が聞こえてきた。普段鳴らない音に、胸騒ぎを感じた。

 嫌な予感がして、足音を殺しながら階段を下りた。ろくでもないことが待ち受けていると、心のどこかでわかっているのに、じっとしていることもできなかった。

「そうですか。ご迷惑をおかけしました。私の方からも強く言い聞かせておきますので」

 そっとリビングをのぞくと、父親が受話器の向こうの相手と話していた。父親の仕事関連の電話は、スマホの方でしかやり取りをしていないはずだ。そうなれば、相手として候補はかなり絞られる。セールス、親戚、あと掛けてくるとしたら学校しかない。

 父親の話し方から、相手が学校であることはほぼ間違いない。昼間に「親に言いたければ好きにすればいい」と思ったことをひどく後悔した。あんなことを考えなければ、もしかしたら連絡なんてされなかったかもしれないのに。

 電話が終わってしまうのが怖い。部屋に逃げ帰ることもできずに、その場で立ち尽くすことしかできない。母親が不安げに父親と翔馬を見比べている。翔馬の視線に気づいた父親が、今までにも見たことがないくらいの鋭い目つきで睨みつけてきた。最悪の予想が当たってしまっていることを確信した。

「お手数をおかけして申し訳ございません。それでは失礼いたします」

 父親が受話器を置いた。振り返った父親の目が、翔馬の顔の傷をとらえた。

「なんだその顔は」

 事実を伝えるよりも、どんな答えを言えば父親から逃げられるのかを一番に考えてしまう。結局なにを言っても、その先に待っているものが変わらないということはわかっているのにだ。

 父親が近づいてくる。これから起こることがわかっているのに、足が自分のものでないみたいに動かなくなる。父親の腕があがったのと同時に目をぎゅっと閉じた。

 いつもと比べものにならないくらいの力が頬にはしった。

「どれだけ俺に恥をかかせたら気が済むんだ、おまえは」

血が止まりかけていた口内の傷から、どろりとしたものがまた溢れてくる。体勢を戻そうとした矢先に、蹴りが腹部に入れられる。むせかえって、フローリングの床に薄い赤色が点々と飛んだ。父親がなにかをわめいているが、耳鳴りのせいでよく聞き取れない。

「やめて!」

 普段見ているだけの母親が、父親の腕をつかんだ。

「黙れ!」

 けれど、弱い母親の力では全くかなわない。あっけなく机に向かって突き飛ばされてしまった。

「だいたいおまえが甘やかすからこんなことになったんだろうが。この役立たずが」

 髪をわしづかみにされたまま、母親の顔が殴られた。

「母さんは関係ないだろ」

 自分のせいで母親が傷つけられるのを見るのは、自分が殴られるよりもずっと痛みを感じる。もうずっと前からそうだった。それが気に食わなかったのか、父親の暴力の矛先はまた翔馬に向けられる。

 ふとこのまま死んだらどうなるのだろうと思った。

 新聞に載ったり、ニュースで流されたりするのだろうか。隣の家のおばさんが、インタビューに答える映像が頭に浮かんだ。すごくいい人だったから信じられません、なんて興奮を隠しきれない声で言うんだろうな。この状況でバカみたいな妄想をしている自分がおかしくなる。それが顔にでてしまったのだろう。

「なに笑ってんだ」

 父親の怒りはますますエスカレートさせてしまった。襟首をつかんで無理やり顔をあげさせられる。いっそのことこのまま殺してくれればいい。すべてが終わるならそれでもいい。そう思ったときだった。

 間の抜けたインターホンの音が聞こえてきた。

 こんなときに誰だよ。インターホンの画面に映る人物を見た瞬間、なんで、と声が出てしまった。

 そこには画面いっぱいに山津の顔が映っている。