「あんたに関係ないだろ!」

 力いっぱい手を引くと、ようやく山津の手が離れた。つかまれていた場所が熱い。

「ほっといてくれよ。担任でもないくせに。俺のことなんかあんたなにも知らないだろ」

「確かに君の言う通りかもしれません」

 山津はまた椅子に座った。翔馬が小さく震える手で袖を戻す。山津の視線が注がれているのを感じた。

「君はイルカですね」

「は?」

 話の流れからかけ離れた言葉に、翔馬は思わず聞き返した。

「知っていますか」

「なにを」

「イルカはストレスがたまるといじめをするんですよ」

 なにがイルカだ。

 ストレスというたった四文字の言葉で、自分が抱えているものを片付けられてしまった気がする。小さな希望を持ってのこのこついてきた数分前の自分を恨みたくなる。そもそもなにをこの人に期待していたのだろうか。

 ただ、と山津は話し続ける。

「自分が傷つけられたことは、人を傷つけていい理由にはなりません」

 まっすぐで、一ミリも間違っていない言葉だった。そんなこと言われなくてもわかっている。正論が、胸の奥深くまで突き刺さる。

「理不尽な暴力の怖さも痛みも、君ならよくわかるんじゃないですか」

 そうだよ。もう十分すぎるぐらいに知ってるよ。じゃあ、傷つけられた人はどうすればいいんだよ。なにもかも飲み込んで、壊れるまで溜めこめばいいとでも言うのか。

 おとなはずるい。正論ばかり振りかざして、そこから外れた人間は問題があると決めつけてくる。理想ばかりでは生きていけないことも、隠されている問題があることも知っているくせに。

 大嫌いだ。

 なにも知らないくせに説教してくる山津も、父親のくせに息子を便利なストレス解消グッズとでも思っている父親も、そこから逃げようともしない母親も、身勝手なおとながつくったこの世界も、そんなおとなに近づいている自分も、なにもかも。全部消えてしまえばいい。

「堤君」

「うるさい」

 山津がなにかを言おうとしたのをさえぎった。

 これ以上なにも聞きたくない。親に言いたければ好きにすればいい。どうせなにも変わらない。もう帰りたい。いつの間にか午後の授業が始まっていたようで、グラウンドからランニングの掛け声が聞こえてくる。のんきな声になぜか泣きたくなった。

 山津の視線を背に感じながら、生物室を出ようとしたときだ。

「イルカは声で会話をする動物です。たとえ暗闇の中でも、音は仲間に届けることができるんですよ」

 なにが言いたいのかまったく理解できない。
 やっぱりこいつはおかしい。言い返す気力すら湧いてこなかった。

死ね。

 そう思いを込めながら、扉を強く閉めた。帰りたい。そう強く思うのに、どこに帰ればいいのかわからなかった。