山津に連れてこられたのは生物室だった。

 この空間だけ、学校の中で隔離されているみたいに静かだった。

「とりあえず座ってください」

 そう言われ、翔馬は近くにあった一番前の廊下側の席に座った。山津もその正面に腰かける。

「けがは大丈夫ですか」

「別に」

 これくらい慣れている、とこぼしそうになった言葉を、血の混じった唾液とともに飲み込んだ。

「君と話すのは二度目なのですが、覚えていますか」

 最悪だ。やはり山津は自分のことを覚えていた。

 忘れろと言われたって、忘れられるわけがないだろう。

 あれは二年に上がって少したったころだった。国木と田中、それからある日突然姿をくらました高橋といたときに、山津がやってきたのを思い出す。あの現場を見ても、山津は𠮟ることも、事情を聞いてくることもなかった。

 山津はほかの教師となにかが違う。そう妙な気味の悪さを感じて、その場をあとにしたのを覚えている。翔馬のクラスの授業を持っていないため、関わることはない。それが今またこうやって対峙している。

 職員室では、とにかく家に連絡がいかないようにするのに必死で、山津が首を突っ込んでくる理由を考える余裕すらなかった。でも、少し冷静になって考えるとおかしい。山津が自分に関わる理由なんてない。むしろ面倒ごとが増えるだけではないか。

「なにが目的なんですか」

「目的?」

 山津が不思議そうに首を傾げた。その仕草がひどくわざとらしくて苛立ちを覚える。

「こんなことしてあんたになんのメリットもないだろう」

「メリット、ですか」

 山津は少しの間、黙ってなにかを考え込む素振りを見せた。

「確かにないかもしれないですね」

 やっぱりこいつがわからない。

 自分のペースだけがどんどん崩されていく。どういうつもりなのかさっさと言えよ。

 そう心の中で悪態をついた瞬間、山津の手がこっちに伸ばされた。突然の動きに反応が遅れる。なにもできないまま、山津に服の袖をめくられた。

「なにすんだよ!」

 手を振り払おうとしたのに、山津は力を全く緩めなかった。

 右腕に浮かんだあざは、まだいくつもくっきりと残ったままだ。それなのに、山津は少しも驚いた様子を見せない。

「今日できたばかりの傷じゃないですよね」

「離せって」

「誰にやられたんですか」

「ぶつけただけだよ」

 幼いころから何度も繰り返してきたセリフが口をつく。

 そっか、と引いてくれるおとなたちに、自分のうそが通用したことになによりもほっとしていた子どものころの自分が蘇ってくる。
 けれど今になってようやくわかる。あの人たちは騙されていたわけじゃない。騙されたふりをすることで、厄介ごとから逃げていただけだと。

「はいそうですか、となると思っているのですか」

 翔馬は顔に熱を帯びるのを感じた。言われなくてもそんなことわかっている。でも、本当のことを言ったところで、どうせ助けてくれないじゃないか。困った顔をするか、あの父親にへたくそに説教を垂れて、事態を悪化させてくるだけだ。