田中の数メートル後ろに、白髪交じりの男が一人立っている。話したことはないが、見覚えがあった。
「ただ、雛が嫌がっているように見えるのは私の勘違いでしょうか」
子守歌のようなゆっくりとした話し方で思い出した。始業式のときに、新しく赴任してきた教師としてあいさつをしていた人だ。直樹たちのクラスとは関わりがなく、存在すら忘れていた。
「じいさん、誰だよ」
堤がポケットに手を入れたまま、男に近づいて行った。堤はこの人のことを全く覚えていないらしい。無理もない。集会での話なんてまともに聞いていたはずないのだから。
「あぁ、君たちのクラスは担当していないから知らなくても仕方ないことです。今年からこの学校で生物の担当をしている、山津直秀です。以後よろしくお願いします」
堤の睨みなど全く気にしていない様子だ。山津は違和感を覚えるくらいに丁寧なお辞儀をした。さすがの堤も、戸惑いを隠せていないようで、眉間にしわを寄せている。
「ここでなにをしていたのですか」
山津が直樹に聞いてきた。もし、ここで助けてと言えば、この人は手を差し伸べてくれるのだろうか。もう何度も教師には期待を裏切られてきたはずなのに、薄っぺらな期待をしてしまう自分がいた。
「遊んでいただけですよ」
黙ったままの直樹の代わりに、堤が答えた。友達に虫を無理やり食べさせる遊びなんて、あるわけがないだろう。普通に考えればわかるはずだ。
「そうですか」
それなのに、山津は堤の言葉にうなずいた。
「それはお邪魔をしてしまいましたね。すみません」
ふっと乾いた笑いが直樹の口から漏れた。
ほら、やっぱり助けてなんてくれない。最初からわかっていた。
「もう帰ります」
堤は、今日はこれ以上関わらない方がいいと思ったのか、バッグを持って立ち去っていく。そのうしろ姿を国木と田中も追っていった。
終わった。直樹は大きくため息をついた。最悪の事態は、今日はなんとか回避できたことにほっとしたのもつかの間だった。
「友達ですか?」
「は?」
ふざけるな。こいつは本当に堤の言葉を信用したというのか。直樹は唇をかみしめた。顔を押さえつけられたときに切ったのか、かすかに鉄の味がした。
「着替えはありますか?」
直樹の答えを待たずに、山津が聞いてきた。山津の目は直樹の制服に向けられている。シャツもズボンも、土と少しの赤い汚れで色が変わっていた。いつもだったら、こんなこともあろうかと、体操服を持ってきている。けれど今日に限って、持ってくるのを忘れてしまった。直樹は首を横に振った。
「生物室に洗濯機があります。そこで洗っていってください」
本当は、今すぐにでも帰りたかった。でもこの格好で電車に乗ってしまったら、きっと目立ってしまう。白い目で見られるのは、学校だけで十分だ。
山津が直樹のリュックサックを持ち上げた。濁った水滴がしたたっている。この様子だと、中身まで汚れてしまったかもしれない。山津がポケットからハンカチを取り出して、底を軽く拭いてくれた。
黙ったまま歩いて行く山津の後ろを歩いた。グレーのスーツの背中が、意外と大きいことに気づく。この話は山本に伝わってしまうのだろうか。どうせ解決しないのなら、これ以上悲惨にしないでほしい。