人を殴るのも体力がいるようで、かすかに息を切らしながら父親は部屋に戻っていった。持ち帰った仕事を今からするのだろう。ここまでくれば、今日はもう絡まれることはないと、長年の経験でわかっている。

「大丈夫?」

 父親が自分の部屋の扉を閉める音が聞こえたあと、今にも泣きそうな声で母親が聞いてきた。翔馬は鈍く痛む腰から手を離した。

「別に。いつものことだろ」

 発した声が、思っていたよりも冷たくなってしまった。母親が、自分が父親に殴られているときよりも、ずっと傷ついたような顔する。罪悪感が押し寄せてきて、この場から逃げ出したい衝動に駆られる。

「風呂入ってくる」

 気にしていないふりをするのが正しいのかはわからない。けれど、これ以外の振舞い方を知らない。

「ごめんね」

 小さな声が後ろから聞こえてきたけれど、振り返れなかった。

 この人がなにに対して謝っているか、翔馬にはわからなかった。


 浴室の鏡に映った自分の体が目に入ってくる。いくつもあるあざに、さっきの暴力の記憶がよみがえってくる。シャワーの温度を、耐えられるギリギリの温度まで上げた。湯気で鏡が曇る。思い出したくない記憶も一緒に洗い流してしまえればいいのに。力いっぱい髪を洗った。

 これのせいで、一年中長袖しか着られない。誰が言い始めたかは知らないが、タトゥーが入っているのを隠すためと言われているらしい。バカバカしいと思ったが、あざだらけなのがばれるよりもずっとずっとマシだ。同情されるのも、中途半端に手を差し伸べられるのも、もうごめんだ。惨めな思いをするのは、家の中だけで充分だ。


 昨日の雨はもうすっかりあがっていた。まだ乾ききっていない地面が、秋に似合わない陽気に照らされている。窓から差し込んでくる光が教室に差し込んでいた。

「田中、これよろしく」

 一限目の英語の宿題のプリントを、同じクラスの田中の机に置いた。

 もともとは数か月前までいた高橋の役割だった。高橋は突然学校に来なくなったかと思えば、いつの間にか席すらなくなっていた。今どこでなにをしているのかは知らない。うわさでは別の高校に通っているという話だが、少しも興味はない。

 そんな高橋に田中自身も宿題を毎回押し付けていた。田中はなにか言いたげに翔馬を目だけで見あげてくる。

「なに、無理なの」

 その目をにらみ返すと、田中は別に、と不満げに目を伏せた。

「俺もよろしくー」

 同じグループの国木も、プリントを机の上に落とした。クラスメイトは、またやってるよとくすくす笑うか、聞こえていないみたいにそれぞれの会話を続ける。田中は舌打ちをしながら、シャーペンを筆箱から取り出した。

「筆跡もちゃんと変えとけよ」

 返事をする代わりに、田中はまた舌打ちをした。筆圧の濃さが、苛立ちを物語っているみたいだった。

 誰かの上に立っているという感覚が、薄汚い安心感をもたらしてくれる。そうすることでしか、心が満たされなくなってしまったのは、いったいいつからだっただろう。ふとそんなことを考えてしまった。

 あの家にいると、自分はこの世の中に存在してはいけなかったのではないかと思ってしまう。痛めつけられるのが当たり前で、生きていることさえ許されない人間のように感じてしまう。

 でも、この瞬間だけは違う。自分は最低の人間ではない。自分はこいつよりは上なのだと感じることができる。それがあまりに歪んだ考え方であることなんて、とっくに気づいている。でも、そうすることでしか心を保つことができない。

──子どもは親に似るっていうしね。

 電車の乗客の会話が蘇ってきた。あいつとは違う。絶対に。そう思いたいのに、自分との決定的な差を見つけられない自分がいた。椅子の背にもたれると、昨日蹴られた腰に痛みがじわりと広がった。