車窓を打つ雨の音に気がついて、堤翔馬は顔をあげた。
朝の天気予報では一日晴れると言っていたのに、全然当たっていない。科学が進化したら、完璧な予報ができるようになるのかとふと思った。
目の前を、まだ小学生にも満たない男の子二人が走っていく。退勤ラッシュにはまだ少し早い。まばらに席が空いている電車内は、彼らの格好の遊び場だろう。
「今の若い親は注意しないのねぇ」
「無理でしょ、あれが親なんだもの」
隣に座った中年女性二人組の声が聞こえてきた。彼女たちがあれと呼んだのは、男の子の母親らしき人物二人だ。二人は合わせたかのように似ている格好をしていた。髪を金色に染め、生活に不便が出そうなくらいに伸びた爪でスマホを触っている。そして乗客全員に聞こえるくらいの声量で、職場や旦那の悪口を言っている。
「絶対にろくな人間に育たないわよ」
見ず知らずの子どもの将来を勝手に決めるあんたはろくな人間なのかよ。そう心の中で突っ込みかけた瞬間、自分もこのおばさんと大して変わらないのではないかということに気づく。人間なんて、みんな終わっているのかもしれない。
「子どもは親に似るっていうしね」
もう一人のおばさんが同調した。その言葉に、ぐっと胸が詰まるのを感じた。適当なこと言ってんじゃねぇよと叫びたくなるのを堪え、意味もなくスマホのメッセージアプリを開いた。届いていたメッセージは、コンビニのクーポンのお知らせだけだった。
赤い屋根に白い壁の二階建ての一軒家。絵本に出てきそうな外観の家を選んだのが、父親だというのがいまだに信じられない。道路からも見える花壇には、色とりどりの秋の花が咲いている。
コスモス、リンドウ、パンジー。花の名前を正確に答えられる男子高校生は、きっと多くはないと思う。意識して覚えようとしたわけでもないのに、当たり前のように知っていた。歴史の人物は何度ノートに書いても覚えられないのに、その差は一体なんなのだろう。
「いつ見てもきれいねぇ」
隣に住むおばあさんが話しかけてきた。意識して口角をあげた顔を彼女に向ける。
「もう少ししたらガーベラも咲くと思いますよ」
花の名前を言いながら、近所の人と笑顔で話す。もし学校の連中が見ても、自分だと気づかないのではないかと思う。
「それは楽しみだわ」
おばあさんはそう言い残して、自分の家に帰っていった。
幸せの象徴みたいなこの家の中でなにが行われているか、誰も知らない。
「ただいま」
リビングでレシートと家計簿を見比べている母親に声をかけた。
「おかえり」
顔をあげた母親の右頬に、真新しい赤いひっかき傷が刻まれている。それを見た瞬間、同じ位置がピリッと痛む。翔馬の視線に気づいたのか、母親は傷を隠すかのように一つに結んでいた髪をおろした。黒髪のなかに、白いものがきらりと光ったのが見えた。
「お父さん、今日帰ってくるの遅いんだって」
「そう」
母親の言葉に、興味がないそぶりで答える。本当は泣きそうになるくらいほっとしていることは、きっと母親には伝わってしまっていると思う。それでも気づいていないふりをするのは、息子を思ってのことなのか、それとも自分のためなのだろうか。
父親と顔を合わせることは、なるべく避けている。よっぽどのことがない限り、部屋にまでは乗り込んで来ない。それも母親が止めてくれている、というより生贄になってくれているからかもしれないが。
けれど今日は油断してしまった。思っていたよりも父親の帰りが早かった。二階にある自室に戻ろうと、玄関の横にある階段をあがろうとしたときだ。外から物音がした。
まずい、と思ったときには、もう扉が開いた。予想通り父親だった。真面目そうな細い銀縁のフレームの眼鏡、しわ一つないスーツ、愛想のいい挨拶、有名車メーカー勤め。近所の人たちは口をそろえて言う。翔馬には「いいお父さん」、母親には「いい旦那さん」だねと。
目が合った瞬間、体が固まるのを感じる。声すら出すことができなかった。とっさに目をそらしたけれど、もう遅い。
「翔馬」
息子の名前をこれほど冷たく呼べる人間をほかに知らない。
「おまえは仕事から帰って来た父親におかえりなさいも言えないのか」
父親はカバンを玄関に置いて近づいてくる。ぐっと歯を食いしばって、これから来る衝撃のための準備をした。ほとんど同時にバチンと音がした。
小さな爆弾が破裂したみたいだといつも思う。
父親を出迎えに来た母親が、小さく息を飲んだ。
「止めるなよ」
そんなことを伝えなくても、きっと母親は動けない。父親だってわかっているはずだ。それでもわざわざ命令するのは、自分の支配が効いている快感に浸りたいがためだと思う。
「これはしつけだ」
聞き飽きた言葉と同時に、二度目の衝撃を浴びる。バランスを崩して、冷たい床に倒れこんでしまった。顔に飽きたのか、腰に蹴りが飛んでくる。目立つ顔よりも、服で隠れる箇所の方がずっと力が強い。
どんなときでも翔馬の体には、見える場所に傷跡を残さないようにすることを忘れない。そのしたたかさは見習うべきなのかもしれない。痛みを感じながらも、別のことを考えられるというのは、いつの間にか身につけた特技だ。
しつけという言葉は便利なものだと思う。それが理不尽なものであっても、相手のためを思ってのことだという意味に変換できる。靴をそろえていなかった、部屋が汚い、近所の人への愛想が悪い、ドアを閉める音が大きかった。目の前にしつけるべきことがなければ、何日も前の出来事をさかのぼってまで「しつけ」の理由を見つけてくる。
自分はもう小さな子どもじゃない。身長も体重も、とっくの昔にこいつを追い越した。やり返すことだってきっとできる。そう頭ではわかっているのに、体のどこかの回線がショートしたみたいに、こいつの前だとただ耐えることしかできなくなる。
いつか絶対に殺してやる。
体の傷が増えるたびに、そう誓う。
朝の天気予報では一日晴れると言っていたのに、全然当たっていない。科学が進化したら、完璧な予報ができるようになるのかとふと思った。
目の前を、まだ小学生にも満たない男の子二人が走っていく。退勤ラッシュにはまだ少し早い。まばらに席が空いている電車内は、彼らの格好の遊び場だろう。
「今の若い親は注意しないのねぇ」
「無理でしょ、あれが親なんだもの」
隣に座った中年女性二人組の声が聞こえてきた。彼女たちがあれと呼んだのは、男の子の母親らしき人物二人だ。二人は合わせたかのように似ている格好をしていた。髪を金色に染め、生活に不便が出そうなくらいに伸びた爪でスマホを触っている。そして乗客全員に聞こえるくらいの声量で、職場や旦那の悪口を言っている。
「絶対にろくな人間に育たないわよ」
見ず知らずの子どもの将来を勝手に決めるあんたはろくな人間なのかよ。そう心の中で突っ込みかけた瞬間、自分もこのおばさんと大して変わらないのではないかということに気づく。人間なんて、みんな終わっているのかもしれない。
「子どもは親に似るっていうしね」
もう一人のおばさんが同調した。その言葉に、ぐっと胸が詰まるのを感じた。適当なこと言ってんじゃねぇよと叫びたくなるのを堪え、意味もなくスマホのメッセージアプリを開いた。届いていたメッセージは、コンビニのクーポンのお知らせだけだった。
赤い屋根に白い壁の二階建ての一軒家。絵本に出てきそうな外観の家を選んだのが、父親だというのがいまだに信じられない。道路からも見える花壇には、色とりどりの秋の花が咲いている。
コスモス、リンドウ、パンジー。花の名前を正確に答えられる男子高校生は、きっと多くはないと思う。意識して覚えようとしたわけでもないのに、当たり前のように知っていた。歴史の人物は何度ノートに書いても覚えられないのに、その差は一体なんなのだろう。
「いつ見てもきれいねぇ」
隣に住むおばあさんが話しかけてきた。意識して口角をあげた顔を彼女に向ける。
「もう少ししたらガーベラも咲くと思いますよ」
花の名前を言いながら、近所の人と笑顔で話す。もし学校の連中が見ても、自分だと気づかないのではないかと思う。
「それは楽しみだわ」
おばあさんはそう言い残して、自分の家に帰っていった。
幸せの象徴みたいなこの家の中でなにが行われているか、誰も知らない。
「ただいま」
リビングでレシートと家計簿を見比べている母親に声をかけた。
「おかえり」
顔をあげた母親の右頬に、真新しい赤いひっかき傷が刻まれている。それを見た瞬間、同じ位置がピリッと痛む。翔馬の視線に気づいたのか、母親は傷を隠すかのように一つに結んでいた髪をおろした。黒髪のなかに、白いものがきらりと光ったのが見えた。
「お父さん、今日帰ってくるの遅いんだって」
「そう」
母親の言葉に、興味がないそぶりで答える。本当は泣きそうになるくらいほっとしていることは、きっと母親には伝わってしまっていると思う。それでも気づいていないふりをするのは、息子を思ってのことなのか、それとも自分のためなのだろうか。
父親と顔を合わせることは、なるべく避けている。よっぽどのことがない限り、部屋にまでは乗り込んで来ない。それも母親が止めてくれている、というより生贄になってくれているからかもしれないが。
けれど今日は油断してしまった。思っていたよりも父親の帰りが早かった。二階にある自室に戻ろうと、玄関の横にある階段をあがろうとしたときだ。外から物音がした。
まずい、と思ったときには、もう扉が開いた。予想通り父親だった。真面目そうな細い銀縁のフレームの眼鏡、しわ一つないスーツ、愛想のいい挨拶、有名車メーカー勤め。近所の人たちは口をそろえて言う。翔馬には「いいお父さん」、母親には「いい旦那さん」だねと。
目が合った瞬間、体が固まるのを感じる。声すら出すことができなかった。とっさに目をそらしたけれど、もう遅い。
「翔馬」
息子の名前をこれほど冷たく呼べる人間をほかに知らない。
「おまえは仕事から帰って来た父親におかえりなさいも言えないのか」
父親はカバンを玄関に置いて近づいてくる。ぐっと歯を食いしばって、これから来る衝撃のための準備をした。ほとんど同時にバチンと音がした。
小さな爆弾が破裂したみたいだといつも思う。
父親を出迎えに来た母親が、小さく息を飲んだ。
「止めるなよ」
そんなことを伝えなくても、きっと母親は動けない。父親だってわかっているはずだ。それでもわざわざ命令するのは、自分の支配が効いている快感に浸りたいがためだと思う。
「これはしつけだ」
聞き飽きた言葉と同時に、二度目の衝撃を浴びる。バランスを崩して、冷たい床に倒れこんでしまった。顔に飽きたのか、腰に蹴りが飛んでくる。目立つ顔よりも、服で隠れる箇所の方がずっと力が強い。
どんなときでも翔馬の体には、見える場所に傷跡を残さないようにすることを忘れない。そのしたたかさは見習うべきなのかもしれない。痛みを感じながらも、別のことを考えられるというのは、いつの間にか身につけた特技だ。
しつけという言葉は便利なものだと思う。それが理不尽なものであっても、相手のためを思ってのことだという意味に変換できる。靴をそろえていなかった、部屋が汚い、近所の人への愛想が悪い、ドアを閉める音が大きかった。目の前にしつけるべきことがなければ、何日も前の出来事をさかのぼってまで「しつけ」の理由を見つけてくる。
自分はもう小さな子どもじゃない。身長も体重も、とっくの昔にこいつを追い越した。やり返すことだってきっとできる。そう頭ではわかっているのに、体のどこかの回線がショートしたみたいに、こいつの前だとただ耐えることしかできなくなる。
いつか絶対に殺してやる。
体の傷が増えるたびに、そう誓う。