山津先生が壁にかかった時計に目をやった。

「今からだと授業をするには厳しいですね」

 山津先生が冗談めかして言った。

「すみません、私のせいで」

「いえいえ、聞いたのはこちらですから。補習はテキストを読んでくるということにしておきましょう」

「それでいいんですか」

「君が内緒にしてくれていたら大丈夫です」

 山津先生が肩をすくめる仕草に、思わず笑ってしまった。

「今日の補習はこれで終了です。気をつけて帰ってくださいね」

 山津先生は、一度も開かなかった教科書を持って教室を出て行こうとする。せめてお礼を言おうと、あかりが口を開きかけたときだ。あ、と山津先生がなにかを思い出したように振り返った。

「気持ちを伝える方法は、言葉を音に乗せる方法以外にもたくさんあると思いますよ」


 山津先生が最後にくれた言葉は、きっと自分へのヒントのはずだ。
 その答えを帰りの電車の中考えてみたけれど、思いつくことができない。

 やっぱり山津先生は自分のことを過大評価しているとしか思えない。

 自宅の最寄り駅に着き、いつもの光景を見て、ほんの少し気が休まる。文具屋から、女の子が二人飛びだしてきた。あの子たちは、きっと誰かの喧嘩をあっさりと止めてしまうんだろうと思うと、その純粋さがうらやましくなる。

 買ったばかりに見えるビニール袋の中から、女の子の一人が笑顔でなにかを取り出した。彼女が手にしているものは、夕日のオレンジ色を反射させてきらきら光っている。それがなにかがわかったとき、あかりの胸に懐かしさが蘇ってきた。

あれを使えば、自分の言葉を届けることができるかもしれない。微かな希望を胸に、あかりは文具屋に足を踏み入れた。

 相変わらずみのりは家にまだ帰っておらず、すこぶる機嫌の悪い母親との夕食をすました。それからすぐに、通学カバンの中から、帰りに買ったものを取り出した。文具屋から出てきた女の子が持っていたものはレターセットだった。

 相手の反応を直接見ずに、時間をかけて自分の思いを整理しながら言葉を選べる。あかりにとって、それは自分の味方になってくれるものだった。

 何度も書き直して、たくさん入っていたはずの便箋は、最後の一枚まで使い切ってしまった。手紙を完成できた頃には、空が白み始めていた。

 朝一番に渡そうと思っていた手紙をいざ渡すとなると、臆病な自分が顔を出してきた。そんなので変わらないよ、余計に怒らせてしまうかもよと邪魔をしてくる。結局、二人に手渡すことはできなくて、放課後、あかりは蘭と涼子のそれぞれの靴箱に手紙を入れた。二人の反応を一日伸ばすことにどれほどの意味があるのかはわからない。でも、そうすることでしか一歩踏み出せなかった。

 二人が仲直りできますように。

 そう願いながらあかりは両手を合わせた。その姿はまるで神社の参拝のようだった。

 次の日、いつもの教室に向かうだけなのにひどく緊張した。受験の合格発表よりもずっとどきどきする。昨日となにも変わらなかったらどうしよう。教室をのぞくのが怖い。でも、ずっとあのままでいいわけがない。二人をまた繋げられるのは自分だけだ。あかりは大きく息を吐いてから教室の扉を開いた。

 昨日までずっと自分の席にいた蘭の姿がない。でも、机の上には見慣れたペンケースが置かれている。次に涼子の席を見た。その瞬間、目の奥がじわっと熱くなるのを感じた。

 蘭と涼がしゃべっている。

 二人は笑顔を浮かべているけれど、ほんの少しぎこちない。お互いに様子を伺うように相手の顔を見るけれど、すぐにさっと目を逸らしてしまう。すれ違いの連続が見ていてもどかしい。

 けれど大切なものが、確かにそこに戻ってきていることをあかりは確信した。

 あかりと最初に目があったのは涼子の方だった。それからすぐに、蘭もあかりに気づく。二人は手にした手紙をすっと顔の横に持っていった。困ったように二人は笑う。眉の下がり具合があまりにもそっくりで、あかりも思わず笑ってしまった。その拍子に、こぼれないように堪えていた涙が頬を流れてしまう。ここ数日泣いてばかりだ。

 でも、今日の涙はいつもとは違うのが自分でもわかる。蘭と涼子が駆け寄ってきた。

「泣かないでよ」

「ずっと辛かったよね、ごめんね」

 そう言う二人の声も潤んでいて、周りから見たら朝っぱらから三人で笑いながら泣いているなんて、奇妙で仕方ないだろう。でも今だけは、人の目を気にしないでいたい。

「いつも通り」が戻ってきた、大切な日だから。