「ごめんなさい」

「大丈夫ですよ。時間はまだまだありますから」

 顔をあげられなくて、山津先生が今どんな表情をしているのかわからない。でもその声にほんの少しも動揺は含まれていなかった。

 今までにも、自分がこんな醜態をさらしてしまったことはある。その相手はいつも優しいひとばかりで、あかりが泣いてしまうとみんな自分がなにかをしてしまったんじゃないかと戸惑っていた。それがまた申し訳なくて、そんな自分に優しさをかけてもらっていることが苦しくなって、余計に涙は止まらなくなってしまうのだった。

「どうしたら」

 ようやく出せた声は自分で思っているよりも、あまりにも小さかった。山津先生に届いているのか自信がない。

「どうしたら、話すことが怖くなくなりますか」

「君は、話すのが怖いのですか」

「怖いです。すごく」

 相手の反応が怖い。自分がなにか話したあとで、ほんの一瞬でも表情にマイナスな変化が現れたら、それがずっと気になってしまう。自分の言葉で相手を傷つけてしまったのかもしれない。的外れなことを言ってしまったのかもしれない。怒らせてしまったのかもしれない。そんな「かもしれない」が起こるのが怖い。

 考えすぎている自覚はある。でも、自分でもどうしていいかわからない。誰かの反応や人の目ばかり気になって、なにもできない自分が大嫌いだ。

 自分の本当の思いを話したことは、もう思い出せないくらい前のことだ。途中、何度も自分でもなにを言いたかったのか見失った。それでも山津先生はただ黙って聞いてくれた。

 どれくらい話し続けていたのかわからない。ただ、胸の奥に隠していた言葉はいつの間にか空っぽになっていた。夢から覚めたみたいに、今の自分の状況を思い出す。悲惨な成績を取って、わざわざ山津先生が時間を確保してくれたのだった。

「すみません、私」

 慌てて顔をブラウスの袖で拭った。強く擦りすぎてしまったせいか、頬がヒリヒリした。恥ずかしさと情けなさで熱を感じる頬が、さらに真っ赤になってしまっている気がする。帰りまでには治まってくれるだろうか。

 そんなあかりを見て、山津先生が小さく笑った。どこに笑うポイントがあったのか、あかりには理解できない。戸惑うあかりに、山津先生が言った。

「君はコウモリですね」

「コウモリ?」

 頭に浮かんだのは、哺乳類なのに空を飛ぶことができるあのコウモリだ。でも、今そんな動物が話に突然登場するわけがない。自分の知らない意味を持つ「コウモリ」があるのだと思う。

「コウモリは、ほとんどの動物が聞き取ることのできない音を聞くことができるんですよ」

 あかりの予想は外れていた。

 山津先生が話しているのは、動物のコウモリの話で合っていたようだ。

「なんとなく、聞いたことがあります。でも」

どうして自分がコウモリなのかわからない。自分の耳がいいなんて一度も感じたことはない。

「君も普通の人には聞き取れない、誰かの心の声を聞き取っているのかもしれませんね」

「え?」

「仕草や声色や視線、表情のささいな変化、返事の間。君はたくさんのものから、無意識に相手の気持ちを読み取っている。自分では気づいていないかもしれませんが、それはみんながみんなできることじゃない。特別な能力であると、私は思いますよ」

 特別な、能力。

 そんなものが、自分に備わっているなんて信じられない。

「相手の気持ちが聞こえすぎてしまうのは、確かに怖いし自分も苦しくなってしまうこともたくさんあるでしょう。でも、誰かを救う力にもなるとても素晴らしい能力だと思いますよ」

 友達の喧嘩も止められず、母親とみのりとの間に立つこともできない自分に、誰かを救うことなんてできるのだろうか。誰かを救うなんて大それたことができるとは思えない。

「そんな力があっても、使えなきゃ意味ないです」

 つい、そんな言葉が口をついてしまった。寄り添ってくれている相手に反抗するなんて、自分でも信じられない。けれど山津先生になら怖くないのが不思議だ。山津先生なら、すべて受け止めてもらえると思ってしまうのは甘えなのだろうか。

「自分がなにかを抱えていることを知っている人がいるというだけでも、人は意外と救われるものですよ」

 山津先生のその言葉は、とても納得のできるものだ。自分の心が、この一時間にも満たない間に、ずいぶんと軽くなっているのがそれを証明していた。