それからチャイムが鳴るまで、蘭も涼子も、そしてあかりも一言も話さなかった。

 午後の授業は全く頭に入ってこなかった。

 どうしてこんなことになってしまったんだろうと、何度も頭の中で繰り返す。

 二人とも、お互いを羨ましいと思っている部分があって、でもそこにほんの一滴だけ黒い嫉妬が混じってしまっていた。それが相手に届くまでの間に、黒い部分だけが大きく広がっていた。

 それでも相手を傷つけようとしたつもりなんて二人には絶対になかったのはわかる。

 涼子の「サボっちゃえば」っていうのは蘭を気遣っての言葉だよと、たった一言が言えなかった自分を恨みたくなる。あの場でもしも自分が、二人とも勘違いしてるよって笑い飛ばせていたら、きっとこんなことにはなっていない。
 二人だって、自分の言葉を聞いたら、「なぁんだ、そういうことだったんだ」「勘違いしちゃった、ごめんね」ってすぐに終わっていたはずだ。伝えられなかった言葉は、いつもあとになってから後悔を運んでくる。

 その場で口に出したい言葉があったとしても、これを言ったら相手がどう思うのかが気になって、いつも喉でつっかえてしまう。そうしている間に、話は次の話題にどんどん変わっていく。あふれてくる言葉はあるのに、みんなみたいに伝えられない自分が大嫌いだ。

 おしゃべりな二人のことだから、すぐに冷戦状態に耐えられなくなると思っていた。でも、その考えは甘かった。

 何日たっても、休日をはさんでも、二人は一切口を利かなかった。突然現れてしまった溝を埋められるのは、自分しかいない。けれど、どちらか一人に話しかけてしまった時点で、その子の肩を持ったように見られてしまうかもしれない。そうなれば、もう一人がかわいそうだ。

 そう思って、蘭が一人になった隙を見て話しかけてみた。でも、いつもの笑顔を蘭が見せてくれることはなかった。そっけない態度で、聞かれたことに答えるだけだ。まとっている空気が息苦しくて、言葉をそれ以上繋ぐことができなかった。

 どうして自分はこんなに臆病なんだろうと、自分で自分が嫌になる。学校でも、家でも、見えない爆弾を避けるのに精いっぱいだ。
 それは心だけでなく、目に見えて現れるようになってしまった。毎日一限目の前に行われる小テスト。一科目で三回連続赤点をとってしまうと、強制的に放課後の補習に参加させられてしまう。得意なはずの生物で、とうとう三回目の赤をとってしまった。

 ひらめきが必要な数学や物理とは違って、暗記科目の生物で補習に送られる人は少ない。生物の補習にひっかかってしまったのは、あかりだけだった。

 放課後、たった一人で教室で待っていた。自分がいなければ、生物担当の山津先生はほかの仕事をすることができたのかもしれない。そう思うと、自分のせいで手をかけてしまうことが、急に申し訳なく感じてきた。迷惑をかけている自分が恥ずかしく、情けない。

 教室の扉が開いた。扉の開き方で誰が来たのかわかる。生徒も先生も合わせた中で、一番静かで丁寧で優しい開け方だ。

「お待たせしました」

 予想通り山津先生だった。山津先生は、いつもの微笑みを浮かべながら教室に入ってきた。あかりはそれに応えるように会釈を返した。二人きりの教室は少しだけ緊張する。

 こんなとき、みんなはなにか話したりするのだろうか。補習に来ているのに雑談をするのもおかしな話だとも思うけれど。

「最近、なにかありました?」

「え?」

 あかりの思いとは反対に、山津先生は、教科書も開かずに聞いてきた。

「ごめんなさい」

 これから赤点続きのことを叱られる。あかりはほとんど無意識に謝ってしまった。そんなあかりを見て、山津先生は小さく笑った。

「謝ることはありません。もしも勉強のほかに夢中になることがあったのなら、それはそれでいいことです」

 そんなことを言う先生は初めてだった。今までの先生はみんな、学生の本分は勉強だと言っていた。あかりも先生たちの言うことに、全く疑問を持っていなかった。

「いいんですか、それで」

「あとでいくらでも挽回すればいいだけの話です」

 ですが、と山津先生は続ける。

「それがなにか苦しいことや辛いことで、なにも手につかないというなら話は別です」

 山津先生の声は穏やかで温かくて、体の奥の方に隠れている言葉を覆った氷をじわじわ溶かしてくるようだ。

「思い当たるものがあるようですね」

 あかりはぎゅっと唇をかみしめた。いつだって、こんなふうに心の奥にしまったものを外に出そうとすると、言葉の代わりに涙が出てきてしまう。自分でもコントロールできないこの体が大嫌いだった。きっと山津先生を困らせてしまっているのはわかっている。でも、自分でもどうしていいのかわからない。