夕食を終え、部屋で宿題をしていると、階下から玄関の扉が開く音がした。

 父親が帰ってくるにはまだ少し早い。みのりが帰ってきたようだ。少し間が空いてから、ヒステリックな二人分の声が聞こえてきた。

 お腹の奥の方が、ずんと重くなるのを感じた。しばらくそれが続いたあと、階段を上る大きな音がした。派手な音を立てながら、部屋の扉が開かれた。

「本当うざいんだけどあの人」

 怒りをぶつけるみたいに、みのりは乱暴にカバンを床に放り投げた。一階にいる母親に聞こえるのではないかとひやひやする。ただでさえ機嫌が悪いのに、あおるようなことはしないでほしいと思って考え直す。

 いや、むしろみのりはそれが目的か。

「明日も放課後どこか行くの?」

 つい明日「も」という言葉を使ってしまった。みのりは母親似の大きな目でこちらをにらみつけてきた。

「お姉ちゃんに関係ないでしょ」

 関係ないことあるもんか。そのせいで機嫌の悪い母親の相手をするのはこっちだということを、みのりは知らないのだ。仮に知ったところで、態度を変えることはきっとないのだろうけれど。

「そうだね、ごめん」

 思ったことを言うよりも、飲み込んでしまった方が楽だ。そうすれば、誰かを傷つけることも、自分の傷もそれ以上増やさなくてすむ。そう考えるようになってしまったのはいつからだったか、もう思い出せない。

 制服を着替えることもなく、ベッドに寝ころびながらスマホをいじるみのりから目を逸らした。背中に刺さるピリピリとした空気が、自分の集中力を削っていくような気がした。


 昨日の喧嘩を引きずっているせいか、母親もみのりも一切口を利かなかった。いつ大きな爆発を起こすかわからない火花が散る家よりも、学校にいる方が安心できるときもある。

 教室に入ると、息をつく間もなく同じクラスの蘭があかりの元にやってきた。

「ねぇ聞いてよ!」

 いつも同じ言葉から始まるのに、繰り広げられる話は様々だ。

 おかしな顔の猫を見たという小さな話から、母親と大喧嘩をしてしまったという深刻な話まで。蘭の話を聞いているうちに、もう一人の仲良しメンバーの涼子が登校してくる。涼子はあとから来たにも関わらず、まるでさっきからずっとそこにいたかのように自然に話に入ってくる。この空間はあかりにとってはとても居心地のいいものだった。

 話すことは苦手だけれど、人の話を聞くのは好きだ。蘭も涼子も、すごくしゃべるタイプだ。

 たった一つの話題の種から、ものすごい勢いで枝分かれさせていく二人の話を聞いているのは楽しい。木が大きくなっていくのを木陰で見ているようだった。正反対の性格の二人が、どうして一緒にいてくれるかはわからない。わからないけれど、ずっとこの時間が続くと信じ切っていた。

 だから、二人が突然口を聞かなくなってしまうなんて考えてもみなかった。

 きっかけは、他愛ない会話だった。

「部活行きたくないなぁ」

 お昼休み、みんなでお弁当を食べていると、吹奏楽部に入っている蘭がぼそっと呟いた。蘭は最近よくこうやって部活の愚痴を言う。顧問が厳しいとか、後輩がなかなか真面目に取り組んでくれないとか、いろいろ悩んでいるみたいだ。

「サボっちゃえばいいじゃん。一日くらい大丈夫でしょ」

 涼子が卵焼きを口に運びながら言った。

「簡単に言わないでよ」

 自分に向けられた言葉じゃないのに、胸に小さな棘が刺さったような痛みがはしった。

「涼子から見たら、部活なんて遊びみたいなものなんだろうけどさ」

「そんなこと思ってないよ」

 涼子は本心から言っている。そう確信できる理由があった。

 去年の文化祭で観た吹奏楽部の発表のとき、涼子が感動していたのを思いだす。クラリネットを堂々と吹いている蘭を見て、涼子は「かっこいいね。あんな風に打ち込めるものがあるのって本当尊敬する」と目を潤ませていた。

 自分を感動させたものを遊びだなんて思うはずがない。

「どうかな」

 蘭は涼子の言葉に全く納得していなさそうだった。その反応に、涼子がむっとしたのを感じる。涼子はそれに気づいていないのだろうか。

「部活よりも勉強の方がずっと大事だって思ってるでしょ」

 涼子はすごくテストの成績がいい。でもそれはお医者さんになりたいという目標があるから頑張っているのであって、コンクールで好成績を修めたくて頑張っている蘭となんら変わりがない。

 どこかに向かって努力しているというのは、目標すらないあかりからしたら、とてもすごいことだ。それなのに、どうして二人はゴールに優劣をつけてしまっているのかがわからない。

「あのさ」

 涼子が顔も上げずに言った。声の冷たさは、気温の低さよりもずっと早く背筋を凍らせてくるということを初めて知った。

「蘭ってたまにそういうとこあるよね」

「そういうとこってなに」

 相手が今から自分にとって痛いところをついてくるとわかっているのに、自ら踏み込んでいくのは怖くないのだろうかと思う。自分だったら絶対に無理だ。

「別に。わかんないならいい」