この世界は、あまりにも騒がしすぎる。

 学校からの帰り道の電車で、佐久間あかりは思った。

 自分とは違う高校の制服を着た女の子二人組が、大きな声でおしゃべりをしている。すぐ隣に座っているおじさんは、さっきから貧乏ゆすりが止まらない。時折女の子たちの声を吹き飛ばすみたいに、大きくため息をつく。吐いた息に、苛立ちが込められているのがわかる。

 おじさんの我慢の限界が来る前に、彼女たちのどちらか一人でも降りてくれることを願った。

 次の駅に着いたけれど、おじさんも女子高生二人も席に座ったままだった。代わりに乗り込んできたのは、金髪の短いスカートの若い女の人だった。

 あかりの目の前に立ったとき、ツンとした香水の匂いが鼻をついた。思わず咳き込みそうになったのを、なんとか堪える。自分が目の前に立った瞬間にそんなことをされたら、きっといい気はしないだろう。匂いを感じないように意識して、口で呼吸を繰り返す。乾いた空気が直接のどを撫でていくのを感じた。

 いつもよりも息苦しかった電車を降りて、慣れ親しんだ駅のホームに立つ。あかりの住む町は都会のわりに緑が多い。最近咲き始めた金木犀の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。とげとげしい香水のにおいがこびりついてしまった肺の奥を、自然の香りが洗い流してくれているみたいだ。

 改札に交通系ICカードを触れさせる。ピッと心地いい音と同時に、閉じていた扉が開く。この瞬間が好きだ。自分が魔法使いになったような気分にさせてくれる。このカードは魔法の杖だ。

 ロータリーには、誰も使っていない電話ボックスが寂しげにたたずんでいる。バス停には編み物をしながら待っているおばあさんがいて、駐輪場の管理人のおじさんは、相変わらず演歌を口ずさみながら巡回をしている。あかりが物心つくころにはすでにあった文具屋さんでは、小学生らしき女の子が二人、楽し気に話しているのが見える。

 全部見慣れた光景で、これをつまらないという人もいるだろう。けれどあかりは違う。いつもと変わらないというのは、すごく落ち着くものだった。

 そしてまたいつもと変わらない道を歩きながら家に向かう。学校は事故防止のためなのか、自宅から駅まで徒歩通学を推奨されている。けれど二十分以上かかる学生には自転車が許可されている。

 あかりもその対象に入ってはいるが、あえて自転車は使わない。のんびり歩くことが昔から好きなのだ。空想に浸ったり、逆になにも考えずに過ごしたりできる時間は特別だと思う。あまり共感してくれる人がいないのが、少しだけ残念に思う。

 壁をクリーム色に塗られた家が見えてきた。生まれたときからずっと住んでいるあかりの家だ。ここで両親と二つ年下の中三の妹みのりとの四人で暮らしている。あかりよりもはやく学校から帰れるはずの妹の靴は玄関にはない。

 またか、と思う。

 妹はこの夏、最後の大会を終え部活を引退していた。受験勉強に移行するのかと思いきや、妹は今まで遊べなかった反動からか、ほとんど毎日のように友達と遊んでいる。それを何度も咎める母親に「友達の家で勉強してるの」と言い返しているが、部活をやっていた頃よりも成績が落ちているらしい。

 つい先日も叱られていたところなのに、全く懲りていないようだ。きっと、今日も母の機嫌は悪いだろう。さっきまでの落ち着いた気分が、一気に落ちていくのを感じた。

「ただいま」

 台所に立つ母親の背中に向かって声をかける。

「おかえり」

 ちゃんと返事はしてくれるものの、母親は振り返ることもなく、その声色は明らかに苛立ちのオーラをまとっている。

 こんなとき、あかりはとにかく母親の地雷を踏まないことに神経を集中させる。すぐに着替えて手伝いをしなければ。そう思っていつもより早く二階の自分の部屋に行った。

 部屋着に着替えて台所に戻る。

「今日はいつもより下りてくるのが早いのね」

 洗い物をしている母親が、横目であかりを見た。

「そうかな」

 その言葉に、ちくりとした嫌味が込められているのを感じる。

「いつもこれぐらいで手伝ってくれるといいのに」

「うん、ごめん」

 地雷を踏まないように気をつけても、母の世界のすべてが地雷になっている以上、どうしようもない。
 いつも通りに来たところで、どうせなにか言われていただろう。そのこともよくわかっている。

 みのりなら、きっとカチンときて、ここからさらに何個も地雷を踏んづけていく。想像するだけでも恐ろしい。けれど、自分が怖がっているものを全く気にしないみのりのことが、ほんの少しだけうらやましくもあった。

 いつものことながら帰ってこないみのりと、仕事で遅い父親は待たずに、母親と二人きりで夕食をとる。母の反応に気を配り続ける時間は、とても長く感じる。こういうとき、食事中にテレビをつけることが許されている家がうらやましくなる。話の話題を作ってくれるし、話さなくても静かになることがない。

「これ、ちょっと塩入れすぎたね」

 母親が手にしていたのはほうれん草のおひたしだった。正直言えば、あかりも母と同じ感想を持っていた。でも、そんな文句口が裂けても言えない。

「そうかな」

 同意するのもはばかられ、あいまいな返事を返す。

「まぁあんたは食べられればなんでもいいか」

「そんなことないよ」

 作り笑いでごまかしたことはばれていないようだ。一番刺激しない回答ができたことにほっとしながら、舌に残るしょっぱさを麦茶で洗い流した。