次の日の一限目は古文の授業だった。
まだ頭が起きていない人が多い時間ということに加えて、担当のおばあちゃん先生は、子守歌かと思うような眠気を誘うゆっくりとした話し方だ。何度もあくびを繰り返したり、完全にノートをとるのを諦めているクラスメイトもいたりする。
「次の段落、誰かに音読してもらおうかな。誰か読んでくれる人」
先生の言葉に、誰も反応しない。目が合わないようにしているのか、それとも本当に聞いていないのか、うつむいている人がほとんどだ。
「誰もいないなら、日付で当てちゃおうかな」
今までだったら、きっとこんなとき手を挙げていた。読むくらいたいしたことないし、成績も加点される。本当に発表が苦手な子が当てられることもない。でも加奈子は手を挙げられずにいた。
やっぱり自分はファーストペンギンみたいに強くなれない。また、陰口をたたかれてしまうのが怖い。褒められたいだけだと思われるのが怖い。「いい子ちゃん」と言われるのが怖い。やっぱり山津先生の言ったことは間違っていると思う。
加奈子が机の下で、ぎゅっとスカートの裾を握ったときだ。視界の端で、なにかが揺れるのが見えた。
隣の席の小木さんの手が、加奈子が力を入れて握った手よりもずっと大きく震えていた。小木さんは、とても静かな女の子で、話しかけられてもいつもあいまいにほほ笑んでいるばかりだ。声を聞いたことのある人の方が少ないのではないかと思うくらいだ。入学してすぐのオリエンテーションの自己紹介で、緊張のあまり泣き出してしまったのをいまだに覚えている。
体調でも悪いのか。そう思ってすぐに別の考えが浮かんできた。今日は三日だ。小木さんの出席番号は三番。このままだと小木さんが当たってしまう可能性が高い。だからこんなに怖がっているんだ。
ここで加奈子が手を挙げれば、小木さんは当たらなくて済むだろう。けれど、と加奈子は迷う。いま自分がやろうとしていることは、ただのおせっかいなのかもしれない。また誰かに陰口を言われてしまうかもしれない。
でも、それがどうした。
加奈子は自分に言い聞かせる。ファーストペンギンは、自分の命をかけて海に飛び込んでいる。ここで手を挙げるくらいのこと、ファーストペンギンと比べたらちっぽけなことだ。力を入れて、まっすぐ上に手を伸ばした。
「はい」
クラス中の視線が集まるのを感じる。先生が「じゃあお願い」とほほ笑んだ。
授業が終わっても、加奈子はまだあの場で手を挙げたことが正解だったのかを考えていた。見つからない答えを探すことは疲れる。机に突っ伏していた顔を上げて、大きくひとつため息をついた。視界に入ってきた黒板には、まださっきの授業の板書が残されたままだった。
また日直が消し忘れている。次の授業の担当の先生は、黒板の文字が残っていたら、黙ったままその文字の上から書き始めてしまう先生だ。日直に教えてあげようかと思ったが、タイミング悪く教室に姿が見えない。
仕方がない、私が代わりにやるしかない。
黒板消しを手に取って、端から文字を消していく。ふと視界に誰かの姿が入ってきた。小木さんだった。もう一つの黒板消しを手にした小木さんと目が合う。小木さんの口が動いた。聞き取れないくらいの小さな声だったけれど、口の動きでわかった。手伝う、と言ってくれたのだ。
「いいの?」
小木さんは首を縦に振る。そして、ありがとうと、今度は聞き取れる声で言った。ありがとうはこっちが言わなきゃいけない言葉なのに。もしかして聞き間違えたのかもしれない。
「ごめん、もう一回言ってもらっていい?」
小木さんから返ってきたのは、やっぱり「ありがとう」だった。
「さっき、助けてくれて」
──ファーストペンギンに救われる個体は、たくさんいます。
山津先生の言葉がよみがえってきた。自分が誰かを救ったなんて思うのは、きっとおおげさでおこがましい。ファーストペンギンがやっていることに比べたら、自分がしたことなんてとても小さなことだ。
でもそんな小さなことで、誰かの役に立てていたのなら、それは自分にとっても幸せなことなのではないかと思う。
「いい子ちゃん」でなにが悪い。
いまはまだ少し怖いけれど、いつか私はファーストペンギンになってやると心の中で誓った。
「ありがとう」
もう迷わない。加奈子は、大切なことに気づかせてくれた小木さんにお礼を言った。小木さんは不思議そうな顔でこっちを見ていた。
山津が美術室に来たのは一週間ぶりだ。自分が間違っているのかと、涙ながらに聞いてきた彼女のことを思い出す。
「うちの部活の生徒に、なにか吹き込んだのか」
壁際に置かれたキャンバスを見ながら、山津を呼び出した中山が聞いてきた。中山は大学時代の先輩だ。同じ空手サークルに入っていたこともあって、何十年もたったいまでも年に数度の手紙のやり取りは続いていた。
「吹き込んだなんて」
なんて人聞きの悪いことを言うのだろうと思った。山津がこの学校に来たときもそうだった。動揺が抑えきれない声で「復讐をしにきたのか」と聞いてきたことを思い出す。誰かに復讐する資格すらないことは、自分が一番よくわかっている。娘のいずみを救えなかったのは、まぎれもない自分自身なのだから。
「私はただ、彼女のことをファーストペンギンだと言っただけですよ」
そう答えると、中山はふーっと深いため息をついた。
彼の目の前のキャンバスには、手のデッサンが描かれている。山津は自分の手のひらと見比べた。指の節の太さや、手のひらと指の長さのバランスが、とてもよく似ている。鉛筆だけで描かれているのにも関わらず、その手は不思議と温かい。自分の手が彼女にはこのように見えていたのかと思うと、嬉しくもあり、同時に後ろめたさを感じてしまう。
「自分の子どもには、ファーストペンギンの役割を背負わせたくはありません。きっと大変なことも多いでしょうから。でももしもいずみのそばに、ファーストペンギンの存在があったなら、なにかが変わっていたかもしれないと考えてしまう。私はとても身勝手ですね」
山津は手を握りしめた。手のひらに爪が食い込んで小さな痛みがはしった。
「仕方ないだろう」
中山はキャンバスに目を落としたまま言った。
「人間はそういう生き物だ」
まだ頭が起きていない人が多い時間ということに加えて、担当のおばあちゃん先生は、子守歌かと思うような眠気を誘うゆっくりとした話し方だ。何度もあくびを繰り返したり、完全にノートをとるのを諦めているクラスメイトもいたりする。
「次の段落、誰かに音読してもらおうかな。誰か読んでくれる人」
先生の言葉に、誰も反応しない。目が合わないようにしているのか、それとも本当に聞いていないのか、うつむいている人がほとんどだ。
「誰もいないなら、日付で当てちゃおうかな」
今までだったら、きっとこんなとき手を挙げていた。読むくらいたいしたことないし、成績も加点される。本当に発表が苦手な子が当てられることもない。でも加奈子は手を挙げられずにいた。
やっぱり自分はファーストペンギンみたいに強くなれない。また、陰口をたたかれてしまうのが怖い。褒められたいだけだと思われるのが怖い。「いい子ちゃん」と言われるのが怖い。やっぱり山津先生の言ったことは間違っていると思う。
加奈子が机の下で、ぎゅっとスカートの裾を握ったときだ。視界の端で、なにかが揺れるのが見えた。
隣の席の小木さんの手が、加奈子が力を入れて握った手よりもずっと大きく震えていた。小木さんは、とても静かな女の子で、話しかけられてもいつもあいまいにほほ笑んでいるばかりだ。声を聞いたことのある人の方が少ないのではないかと思うくらいだ。入学してすぐのオリエンテーションの自己紹介で、緊張のあまり泣き出してしまったのをいまだに覚えている。
体調でも悪いのか。そう思ってすぐに別の考えが浮かんできた。今日は三日だ。小木さんの出席番号は三番。このままだと小木さんが当たってしまう可能性が高い。だからこんなに怖がっているんだ。
ここで加奈子が手を挙げれば、小木さんは当たらなくて済むだろう。けれど、と加奈子は迷う。いま自分がやろうとしていることは、ただのおせっかいなのかもしれない。また誰かに陰口を言われてしまうかもしれない。
でも、それがどうした。
加奈子は自分に言い聞かせる。ファーストペンギンは、自分の命をかけて海に飛び込んでいる。ここで手を挙げるくらいのこと、ファーストペンギンと比べたらちっぽけなことだ。力を入れて、まっすぐ上に手を伸ばした。
「はい」
クラス中の視線が集まるのを感じる。先生が「じゃあお願い」とほほ笑んだ。
授業が終わっても、加奈子はまだあの場で手を挙げたことが正解だったのかを考えていた。見つからない答えを探すことは疲れる。机に突っ伏していた顔を上げて、大きくひとつため息をついた。視界に入ってきた黒板には、まださっきの授業の板書が残されたままだった。
また日直が消し忘れている。次の授業の担当の先生は、黒板の文字が残っていたら、黙ったままその文字の上から書き始めてしまう先生だ。日直に教えてあげようかと思ったが、タイミング悪く教室に姿が見えない。
仕方がない、私が代わりにやるしかない。
黒板消しを手に取って、端から文字を消していく。ふと視界に誰かの姿が入ってきた。小木さんだった。もう一つの黒板消しを手にした小木さんと目が合う。小木さんの口が動いた。聞き取れないくらいの小さな声だったけれど、口の動きでわかった。手伝う、と言ってくれたのだ。
「いいの?」
小木さんは首を縦に振る。そして、ありがとうと、今度は聞き取れる声で言った。ありがとうはこっちが言わなきゃいけない言葉なのに。もしかして聞き間違えたのかもしれない。
「ごめん、もう一回言ってもらっていい?」
小木さんから返ってきたのは、やっぱり「ありがとう」だった。
「さっき、助けてくれて」
──ファーストペンギンに救われる個体は、たくさんいます。
山津先生の言葉がよみがえってきた。自分が誰かを救ったなんて思うのは、きっとおおげさでおこがましい。ファーストペンギンがやっていることに比べたら、自分がしたことなんてとても小さなことだ。
でもそんな小さなことで、誰かの役に立てていたのなら、それは自分にとっても幸せなことなのではないかと思う。
「いい子ちゃん」でなにが悪い。
いまはまだ少し怖いけれど、いつか私はファーストペンギンになってやると心の中で誓った。
「ありがとう」
もう迷わない。加奈子は、大切なことに気づかせてくれた小木さんにお礼を言った。小木さんは不思議そうな顔でこっちを見ていた。
山津が美術室に来たのは一週間ぶりだ。自分が間違っているのかと、涙ながらに聞いてきた彼女のことを思い出す。
「うちの部活の生徒に、なにか吹き込んだのか」
壁際に置かれたキャンバスを見ながら、山津を呼び出した中山が聞いてきた。中山は大学時代の先輩だ。同じ空手サークルに入っていたこともあって、何十年もたったいまでも年に数度の手紙のやり取りは続いていた。
「吹き込んだなんて」
なんて人聞きの悪いことを言うのだろうと思った。山津がこの学校に来たときもそうだった。動揺が抑えきれない声で「復讐をしにきたのか」と聞いてきたことを思い出す。誰かに復讐する資格すらないことは、自分が一番よくわかっている。娘のいずみを救えなかったのは、まぎれもない自分自身なのだから。
「私はただ、彼女のことをファーストペンギンだと言っただけですよ」
そう答えると、中山はふーっと深いため息をついた。
彼の目の前のキャンバスには、手のデッサンが描かれている。山津は自分の手のひらと見比べた。指の節の太さや、手のひらと指の長さのバランスが、とてもよく似ている。鉛筆だけで描かれているのにも関わらず、その手は不思議と温かい。自分の手が彼女にはこのように見えていたのかと思うと、嬉しくもあり、同時に後ろめたさを感じてしまう。
「自分の子どもには、ファーストペンギンの役割を背負わせたくはありません。きっと大変なことも多いでしょうから。でももしもいずみのそばに、ファーストペンギンの存在があったなら、なにかが変わっていたかもしれないと考えてしまう。私はとても身勝手ですね」
山津は手を握りしめた。手のひらに爪が食い込んで小さな痛みがはしった。
「仕方ないだろう」
中山はキャンバスに目を落としたまま言った。
「人間はそういう生き物だ」