「絵を描くのは好きですか」
ここで中山先生を待つつもりなのか、山津先生は窓際の椅子に座りながら聞いてきた。美術部の人間なのだから、程度の差はあれどその答えは決まっているだろうとは思う。
「好きです」
「どういったところが好きですか?」
改まって聞かれると困る。自分でもよくわからない。昔から、ただ何となく好きで、楽しくて、書き続けてきただけだ。そのうちに周りの人よりも少し得意になって、ほかにやりたいこともなかったから中学のころから美術部に入っていた。
「理由はわかりません。ただ、なんとなく好きなだけです」
薄っぺらい答えだと思われてしまったかもしれない。でも、それが本当の答えなのだから仕方ないじゃないか。それなのに、模範解答がほかにあったのではないかと考えてしまう。これがあゆみたちの言う「いい子ちゃん」なのかもしれない。
「素晴らしいですね」
「え?」
あいまいで、確信をついていない答えなのに、山津先生は今にも拍手をしそうなくらいに感心した様子で頷いた。
「理由がないのに好きというのは、理由があって好きだというよりずっと奥が深いですから」
正直、山津先生がなにを言わんとしているかわからない。けれど、決して自分の言葉を否定せずにいてくれていることだけは伝わってくる。この先生なら、どんな質問にも「いい子ちゃん」ではない答えを教えてくれるような気がした。
「山津先生」
「はい」
「ひとつだけ教えてもらってもいいですか」
「なんでしょう」
「学校では、先生の言うことを聞く子と、友達に合わせる子、どっちが幸せになれますか」
こんな質問、清水先生にはできない。おとなの言葉が正しいと言われるに決まっている。でも山津先生だったら、きっと本当の答えを教えてくれる。
傍から見ればただのゴミでも、その奥に隠された思いを受け取ってくれたから。
「それは先生の言うことを聞く生徒でしょう」
あっさりと山津先生は答えた。
「教師は君たちより長く生きている分、失敗も成功も多く体験し、そして目撃しています。だからこそ伝えられることがあります」
それを信じた結果、苦しめられている自分はいったいなんなのだろうと思ったときだ。
「ですが」
山津がまっすぐに加奈子の目を見ていた。
「そう単純にいかないのが学校という空間です。君も、それに悩まされているのではありませんか」
どうしてわかるんだろう。週に三回の生物の時間しか会わないのに。直接話したことなんて今までないのに。毎日顔を合わせて、一緒にお昼ご飯を食べていても、心の中がわからない人もいるのに。
「先生」
せっかく耐えた涙が、また戻ってきてしまう。
「なんでしょう」
「いい子でいるのって、そんなにみんなを不快にさせてしまうことですか」
山津先生は黙ったままだ。話の続きを待っているみたいに。
「私はちゃんとおとなの指示を守ってきました。授業の問題にわかったら手を挙げる、ゴミが落ちていたら拾う、困っている人がいたら助ける。全部当たり前だって教えられたことです。それは全部うそなんですか。言葉の奥に隠されている本当の意味を、私だけが理解できていなかったんですか」
何度頬をぬぐっても、涙はあふれて止まらない。小さな子どもみたいだ。高校生にもなって、こんな姿を人に見せるのは絶対におかしい。そんなことはわかっている。それでもコントロールできない自分がいる。
たまらなく恥ずかしくて、情けなかった。
きっと山津先生を困らせてしまっている。気持ちを少しでも落ち着けるために、加奈子が大きく息を吐いたときだった。
「君は、ファーストペンギンですね」
山津先生の口から、聞きなれない言葉が飛んできた。答えに困る加奈子に、山津先生が聞いてきた。
「ファーストペンギンという言葉を聞いたことがありますか?」
加奈子は首を横に振った。頭に浮かんできたのは、水中を上手に泳ぐ動物のペンギンだ。そういう種類のペンギンが存在しているのかもしれない。それが仮にいたとして、どうして急に山津先生がその話をし始めたのかがわからない。
「ペンギンは群れをなす動物です。陸から海に下りるとき、群れの中で一番に海に飛び込むペンギンをファーストペンギンと呼びます。ファーストペンギンは、海に危険がないかを、身をもって確かめます。ほかのペンギンは、ファーストペンギンが天敵に襲われないかを確認してから海に飛び込みます」
それが自分となんの関係があるのか、加奈子にはまだ理解ができないでいた。山津先生はまだ話し続ける。
「周りと違う行動を一番にするのは怖いものです。それがカラオケのトップバッターのような小さなものでも、敵がいるかもしれない海に飛びこむような大きなことでも。傷つくかもしれないし、失敗して笑われるかもしれない。目立ちたがり屋と言われたり、褒められたいがためにやっていると、冷ややかな目で見られたりすることもあるでしょう」
「だったら」
みんなに合わせて生きていく方がずっと楽じゃないかと言いかけたのを、山津先生が手で制した。深くしわが刻まれた、広くて優しい手のひらだった。
「ですが忘れないでください。ファーストペンギンに救われる個体は、たくさんいます。そして僕はそんなファーストペンギンを、心から尊敬していますよ」
山津先生は加奈子をファーストペンギンだと言った。ファーストペンギンを知れば知るほど、それは間違っているのではないかと思う。自分はそんなに強くも、かっこよくもなれない。笑われるのも、傷つくのもすごく怖い。誰かを救ったことなんて一度もない。こんな自分と一緒にするなんて、ファーストペンギンに失礼だ。
言いたいことを伝え終わったのか、山津先生は手をすっとおろした。それを合図にしたかのようなタイミングで、部室の扉が開いた。中山先生が、あくびをしながら部屋に入ってくる。部室に山津先生がいることに気が付くと、ぴたりと動きを止めた。そして加奈子と山津先生を交互に見たあと、加奈子に声をかけてきた。
「なにがあった?」
「え」
驚きと心配が半分半分の声だった。加奈子はついさっきまで自分が泣いていたことを思い出した。まだ濡れたままの頬を慌ててぬぐう。
「なんでもないです」
あまりにも無理がある答えだ。中山先生は山津先生に疑いの目を向ける。
「中山先生を待たせてもらっていました」
中山先生が今この状況に困惑していることは、山津先生にも分かっているはずだ。それなのに、何事もなかったかのように山津先生はいつものように話す。
「私の知り合いが、絵の学校に通っていましてね。外部の先生の意見もぜひ聞きたいそうなんです。よければお力を貸してもらえませんか」
「それはかまわないが」
中山先生が横目で加奈子を見る。
「本当に大丈夫なのかい」
「本当に大丈夫です」
中山先生はまだ納得はいっていないみたいだ。けれどこれ以上追及するのは諦めたらしい。詳しい話を聞くと言って、隣にある準備室に山津先生を連れて行ってしまった。
美術室は、またいつもの静かな空間に戻った。聞こえるのは、加奈子が鼻をすすった音だけだった。
ここで中山先生を待つつもりなのか、山津先生は窓際の椅子に座りながら聞いてきた。美術部の人間なのだから、程度の差はあれどその答えは決まっているだろうとは思う。
「好きです」
「どういったところが好きですか?」
改まって聞かれると困る。自分でもよくわからない。昔から、ただ何となく好きで、楽しくて、書き続けてきただけだ。そのうちに周りの人よりも少し得意になって、ほかにやりたいこともなかったから中学のころから美術部に入っていた。
「理由はわかりません。ただ、なんとなく好きなだけです」
薄っぺらい答えだと思われてしまったかもしれない。でも、それが本当の答えなのだから仕方ないじゃないか。それなのに、模範解答がほかにあったのではないかと考えてしまう。これがあゆみたちの言う「いい子ちゃん」なのかもしれない。
「素晴らしいですね」
「え?」
あいまいで、確信をついていない答えなのに、山津先生は今にも拍手をしそうなくらいに感心した様子で頷いた。
「理由がないのに好きというのは、理由があって好きだというよりずっと奥が深いですから」
正直、山津先生がなにを言わんとしているかわからない。けれど、決して自分の言葉を否定せずにいてくれていることだけは伝わってくる。この先生なら、どんな質問にも「いい子ちゃん」ではない答えを教えてくれるような気がした。
「山津先生」
「はい」
「ひとつだけ教えてもらってもいいですか」
「なんでしょう」
「学校では、先生の言うことを聞く子と、友達に合わせる子、どっちが幸せになれますか」
こんな質問、清水先生にはできない。おとなの言葉が正しいと言われるに決まっている。でも山津先生だったら、きっと本当の答えを教えてくれる。
傍から見ればただのゴミでも、その奥に隠された思いを受け取ってくれたから。
「それは先生の言うことを聞く生徒でしょう」
あっさりと山津先生は答えた。
「教師は君たちより長く生きている分、失敗も成功も多く体験し、そして目撃しています。だからこそ伝えられることがあります」
それを信じた結果、苦しめられている自分はいったいなんなのだろうと思ったときだ。
「ですが」
山津がまっすぐに加奈子の目を見ていた。
「そう単純にいかないのが学校という空間です。君も、それに悩まされているのではありませんか」
どうしてわかるんだろう。週に三回の生物の時間しか会わないのに。直接話したことなんて今までないのに。毎日顔を合わせて、一緒にお昼ご飯を食べていても、心の中がわからない人もいるのに。
「先生」
せっかく耐えた涙が、また戻ってきてしまう。
「なんでしょう」
「いい子でいるのって、そんなにみんなを不快にさせてしまうことですか」
山津先生は黙ったままだ。話の続きを待っているみたいに。
「私はちゃんとおとなの指示を守ってきました。授業の問題にわかったら手を挙げる、ゴミが落ちていたら拾う、困っている人がいたら助ける。全部当たり前だって教えられたことです。それは全部うそなんですか。言葉の奥に隠されている本当の意味を、私だけが理解できていなかったんですか」
何度頬をぬぐっても、涙はあふれて止まらない。小さな子どもみたいだ。高校生にもなって、こんな姿を人に見せるのは絶対におかしい。そんなことはわかっている。それでもコントロールできない自分がいる。
たまらなく恥ずかしくて、情けなかった。
きっと山津先生を困らせてしまっている。気持ちを少しでも落ち着けるために、加奈子が大きく息を吐いたときだった。
「君は、ファーストペンギンですね」
山津先生の口から、聞きなれない言葉が飛んできた。答えに困る加奈子に、山津先生が聞いてきた。
「ファーストペンギンという言葉を聞いたことがありますか?」
加奈子は首を横に振った。頭に浮かんできたのは、水中を上手に泳ぐ動物のペンギンだ。そういう種類のペンギンが存在しているのかもしれない。それが仮にいたとして、どうして急に山津先生がその話をし始めたのかがわからない。
「ペンギンは群れをなす動物です。陸から海に下りるとき、群れの中で一番に海に飛び込むペンギンをファーストペンギンと呼びます。ファーストペンギンは、海に危険がないかを、身をもって確かめます。ほかのペンギンは、ファーストペンギンが天敵に襲われないかを確認してから海に飛び込みます」
それが自分となんの関係があるのか、加奈子にはまだ理解ができないでいた。山津先生はまだ話し続ける。
「周りと違う行動を一番にするのは怖いものです。それがカラオケのトップバッターのような小さなものでも、敵がいるかもしれない海に飛びこむような大きなことでも。傷つくかもしれないし、失敗して笑われるかもしれない。目立ちたがり屋と言われたり、褒められたいがためにやっていると、冷ややかな目で見られたりすることもあるでしょう」
「だったら」
みんなに合わせて生きていく方がずっと楽じゃないかと言いかけたのを、山津先生が手で制した。深くしわが刻まれた、広くて優しい手のひらだった。
「ですが忘れないでください。ファーストペンギンに救われる個体は、たくさんいます。そして僕はそんなファーストペンギンを、心から尊敬していますよ」
山津先生は加奈子をファーストペンギンだと言った。ファーストペンギンを知れば知るほど、それは間違っているのではないかと思う。自分はそんなに強くも、かっこよくもなれない。笑われるのも、傷つくのもすごく怖い。誰かを救ったことなんて一度もない。こんな自分と一緒にするなんて、ファーストペンギンに失礼だ。
言いたいことを伝え終わったのか、山津先生は手をすっとおろした。それを合図にしたかのようなタイミングで、部室の扉が開いた。中山先生が、あくびをしながら部屋に入ってくる。部室に山津先生がいることに気が付くと、ぴたりと動きを止めた。そして加奈子と山津先生を交互に見たあと、加奈子に声をかけてきた。
「なにがあった?」
「え」
驚きと心配が半分半分の声だった。加奈子はついさっきまで自分が泣いていたことを思い出した。まだ濡れたままの頬を慌ててぬぐう。
「なんでもないです」
あまりにも無理がある答えだ。中山先生は山津先生に疑いの目を向ける。
「中山先生を待たせてもらっていました」
中山先生が今この状況に困惑していることは、山津先生にも分かっているはずだ。それなのに、何事もなかったかのように山津先生はいつものように話す。
「私の知り合いが、絵の学校に通っていましてね。外部の先生の意見もぜひ聞きたいそうなんです。よければお力を貸してもらえませんか」
「それはかまわないが」
中山先生が横目で加奈子を見る。
「本当に大丈夫なのかい」
「本当に大丈夫です」
中山先生はまだ納得はいっていないみたいだ。けれどこれ以上追及するのは諦めたらしい。詳しい話を聞くと言って、隣にある準備室に山津先生を連れて行ってしまった。
美術室は、またいつもの静かな空間に戻った。聞こえるのは、加奈子が鼻をすすった音だけだった。