今日は朝から雨が降っていた。
下駄箱前のコンクリートの床に、水滴でたくさんの模様が描かれている。それを見ながら、田村加奈子は靴を履き替えた。
「おはよ、加奈子」
背中を軽くたたかれて顔をあげた。湿気を含んだ髪が、顔にかかる。結んでくれば良かったなと少し後悔した。
「おはよう」
同じ美術部に入っているあゆみだった。美術部に入っている一年の女子は、加奈子とあゆみの二人だけだ。クラスも同じで、気づけば一日のほとんどを一緒に過ごすようになった。
「雨、やだねぇ」
あゆみがビニール傘をたたみながら言った。
「でも雨が降らないと植物も育たないし、水もなくなっちゃうよ」
それに、雨は嫌いじゃない。それぞれの好みが見える傘や、地面や屋根をたたく雨の音、雨の日だけに感じる土と葉っぱの匂い。慣れ親しんだ通学路も、少しだけ特別に感じさせてくれる。
「まぁそれはそうなんだけどさ」
あゆみはつまらなさそうにため息をついた。ローファーを下駄箱にしまう音が、いつもより大きい。雨に対する不満をぶつけているみたいだ。そこまで嫌われてしまっている雨が、少しかわいそうな気がした。
教室の前の傘立ては、隣のクラスのものより荒れていた。底に真横に倒れている傘もあれば、傘と傘の間に無理矢理押し込まれて飛び出ているものもある。
前に雨が降った日にもこういうことがあった。担任がそれぞれ気をつけなさいと言っていたのになにも変わっていない。また朝のホームルームで怒られてしまうかもしれない。加奈子はカバンを机に置いてから、すぐに傘の整理をした。
「あら田村さん」
傘を並べ直していると、担任の清水先生がやってきた。前に叱ったことを何度も蒸し返してくることが多く、生徒たちからは少し嫌われている。昔から小柄だったのが、加齢のためにさらに小さくなったらしい。そのせいでほとんどの生徒に見下ろされる形になっている。清水先生は左腕に何本もの傘を引っ掛けている加奈子の姿を見て、なにをしていたかを察してくれたらしい。
「またみんな適当に並べていたの?」
清水先生は嫌いなものを見るように眉間にしわを寄せた。
「少しだけ散らかってたんです」
「みんなの代わりにやってくれたのね。本当いつもありがとう」
いつも、という言葉が嬉しかった。清水先生は、自分の行動をみてくれているのだと思えた。日直が消し忘れた黒板を消したり、教室のごみを拾ったり、クラスのノートを集めたり、授業中に一番に手を挙げたり。
みんながやりたがらないことを進んでするということは、加奈子にとって当たり前のことだった。幼いころから両親にそう教えられてきた。誰も見ていないと思っていても、見ている人は見てくれる。小学校でも、中学でも通信簿ではそのことを先生が褒めてくれた。そんな加奈子を、両親もすごいと言ってくれる。
まわりの人を助けることができて、自分はみんなにありがとうと言ってもらえる。それが加奈子にとって一番の幸せだった。この先もそうだと信じ切っていた。
今日最後の授業が終わり、クラスメイトは自宅や部活に向かい始める。加奈子もいつも通りにあゆみと一緒に美術室に行こうと思った。けれどあゆみは同じクラスの女子たちと昨日の音楽番組について話し込んでいる。もしかしたら、なかなか話が切り上げられないでいるのかもしれない。
「あゆみ」
話している輪に乗り込んだ。一緒に話している子たちが一斉に加奈子を見た。同じクラスとはいえ、ほとんど話したことがないメンバーで、ほんの少しだけ気まずい。
「部活、行こうよ」
自分では助け舟を出したつもりだった。このあとあゆみが「なかなか抜けれなくって。ありがとう」と言ってくれるのを想像した。けれどあゆみから返ってきたのは意外な言葉だった。
「あー、ごめん。私今日パス」
あゆみが目の前で両手をパチンと合わせた。だったら先に言ってくれればいいのに、と思ってしまう。
「そっか。了解」
心の声をとっさに作った笑顔でごまかした。じゃあまたあした、と加奈子は教室をあとにした。
下駄箱前のコンクリートの床に、水滴でたくさんの模様が描かれている。それを見ながら、田村加奈子は靴を履き替えた。
「おはよ、加奈子」
背中を軽くたたかれて顔をあげた。湿気を含んだ髪が、顔にかかる。結んでくれば良かったなと少し後悔した。
「おはよう」
同じ美術部に入っているあゆみだった。美術部に入っている一年の女子は、加奈子とあゆみの二人だけだ。クラスも同じで、気づけば一日のほとんどを一緒に過ごすようになった。
「雨、やだねぇ」
あゆみがビニール傘をたたみながら言った。
「でも雨が降らないと植物も育たないし、水もなくなっちゃうよ」
それに、雨は嫌いじゃない。それぞれの好みが見える傘や、地面や屋根をたたく雨の音、雨の日だけに感じる土と葉っぱの匂い。慣れ親しんだ通学路も、少しだけ特別に感じさせてくれる。
「まぁそれはそうなんだけどさ」
あゆみはつまらなさそうにため息をついた。ローファーを下駄箱にしまう音が、いつもより大きい。雨に対する不満をぶつけているみたいだ。そこまで嫌われてしまっている雨が、少しかわいそうな気がした。
教室の前の傘立ては、隣のクラスのものより荒れていた。底に真横に倒れている傘もあれば、傘と傘の間に無理矢理押し込まれて飛び出ているものもある。
前に雨が降った日にもこういうことがあった。担任がそれぞれ気をつけなさいと言っていたのになにも変わっていない。また朝のホームルームで怒られてしまうかもしれない。加奈子はカバンを机に置いてから、すぐに傘の整理をした。
「あら田村さん」
傘を並べ直していると、担任の清水先生がやってきた。前に叱ったことを何度も蒸し返してくることが多く、生徒たちからは少し嫌われている。昔から小柄だったのが、加齢のためにさらに小さくなったらしい。そのせいでほとんどの生徒に見下ろされる形になっている。清水先生は左腕に何本もの傘を引っ掛けている加奈子の姿を見て、なにをしていたかを察してくれたらしい。
「またみんな適当に並べていたの?」
清水先生は嫌いなものを見るように眉間にしわを寄せた。
「少しだけ散らかってたんです」
「みんなの代わりにやってくれたのね。本当いつもありがとう」
いつも、という言葉が嬉しかった。清水先生は、自分の行動をみてくれているのだと思えた。日直が消し忘れた黒板を消したり、教室のごみを拾ったり、クラスのノートを集めたり、授業中に一番に手を挙げたり。
みんながやりたがらないことを進んでするということは、加奈子にとって当たり前のことだった。幼いころから両親にそう教えられてきた。誰も見ていないと思っていても、見ている人は見てくれる。小学校でも、中学でも通信簿ではそのことを先生が褒めてくれた。そんな加奈子を、両親もすごいと言ってくれる。
まわりの人を助けることができて、自分はみんなにありがとうと言ってもらえる。それが加奈子にとって一番の幸せだった。この先もそうだと信じ切っていた。
今日最後の授業が終わり、クラスメイトは自宅や部活に向かい始める。加奈子もいつも通りにあゆみと一緒に美術室に行こうと思った。けれどあゆみは同じクラスの女子たちと昨日の音楽番組について話し込んでいる。もしかしたら、なかなか話が切り上げられないでいるのかもしれない。
「あゆみ」
話している輪に乗り込んだ。一緒に話している子たちが一斉に加奈子を見た。同じクラスとはいえ、ほとんど話したことがないメンバーで、ほんの少しだけ気まずい。
「部活、行こうよ」
自分では助け舟を出したつもりだった。このあとあゆみが「なかなか抜けれなくって。ありがとう」と言ってくれるのを想像した。けれどあゆみから返ってきたのは意外な言葉だった。
「あー、ごめん。私今日パス」
あゆみが目の前で両手をパチンと合わせた。だったら先に言ってくれればいいのに、と思ってしまう。
「そっか。了解」
心の声をとっさに作った笑顔でごまかした。じゃあまたあした、と加奈子は教室をあとにした。