補導事件から数日が経った。補導されたことは警察から母親に直接連絡がいった。怒られることを覚悟していたけれど、「サボるならせめて一言いってよね」と少しずれた注意を受けただけで済んだ。

 相変わらず翔太は家に寄り付かないし、根岸たちとつるむようになった今でも、自分を見る目が変わらないやつもいる。どれだけヘビの知らなかった一面を教えたところで、苦手なままの人もいるだろう。それでもいい。この世の全員に怖がられているわけではない。今はそれだけで十分だ。

「松野君」

 一日の授業を終えて、下駄箱で靴を履き替えているとき、後ろから声を掛けられた。振り返ると、山津が立っていた。山津とはあの日以来、授業で当ててくるとき以外は話していない。

「最近、表情が柔らかくなりましたね」

「そうですかね」

 これは母親にも言われた。けれど素直に認めるのは少し恥ずかしい。

「君に、一つ教えてもらいたいことがあります」

「教えてもらいたいこと?」

 自分が山津に教えることなんてあるだろうか。

「君は去年一組でしたよね」

「そうですけど」

「片岡いずみという生徒を覚えていますか」

 心臓が、どくんと大きく脈打った。

 一度も話したことがない。
 けれど、彼女の名前を一生忘れることはない。

 良太が答えないのを、山津は肯定ととらえたようだ。

「君の目から見て、彼女はどんな人でしたか」

「知らないです。一度も話したこともないし」

 関わりたくなかった。あのときだって、今だって。

 その場から立ち去ろうとしたとき、山津に腕をつかまれた。

「どんなことでもいいんです」

 山津につかまれた腕が痛い。この人は片岡いずみのなにを知ろうとしているのだろう。
 良太の頭に、一年前の教室の光景がよみがえってきた。

 あいつよりはマシだ。

 悪意を持たれた上で一人にされている彼女と、自己防衛のために避けられている自分。そこには悪意の有無という大きなラインがある。下には下がいる。だから、自分は大丈夫。

 ぽつんと一人で座っていた彼女の背中を見ながら、いつも自分に言い聞かせていた。

「知らない」

 けれど自分は関係ない。同じ教室にいた時間があったというだけだ。

 山津の手を振りほどこうとしたとき、廊下の方に誰かがやってきた。

「山津先生!」

 校長だった。山津は我に返ったかのように、良太から離れた。

「君はもう行きなさい」

 校長は山津と良太を交互に見た後、玄関を指さした。良太は逃げるようにその場を後にした。

 二人の声が聞こえないくらいの場所まで来て、良太は振り返った。二人が、まだなにかを話し込んでいるのが見える。

 腕に、山津につかまれた感触がまだはっきりと残っていた。あれは本当に自分の知っている山津だったのだろうか。
 意外な一面を知ってもらうことができたらと、そう教えてくれた山津の言葉が脳裏によみがえってくる。その一面が、壁を取り払うものだったらいい。

 でももしも、それがとてつもなく深い闇に覆われたものならば、どうなってしまうのだろう。