教室についたのは、ちょうど休み時間だった。扉の向こうから、楽し気に話す声が聞こえる。普段よりも重く感じる扉を、緊張のせいか大きな音を立てて開けてしまった。騒がしかった教室が、一気に静まり返る。そしていつもの視線を感じた。
それに気づかないふりをして、良太は自分の席につく。カバンから教科書とノートを取り出そうとしたとき、カチューシャが目に入ってきた。今朝起こったばかりのできごとなのに、もう何日も経ったような気がする。あんなに長く感じた午前は初めてだ。
「あの」
頭上から声が聞こえてきた。昨日財布がないと騒いでいた根岸が、気まずそうに立っている。良太は慌ててカバンのチャックを閉めた。
「なに」
クラスメイトと話すことが久しぶり過ぎて、テンションがわからない。自分が出そうと思っていた声よりも低くなってしまった。それに委縮してしまったのか、根岸がさらに肩を縮こまらせた。
「財布、あったんだ。その、自販機でジュース買ったときに、いったんベンチに財布置いて、それでそのまま」
たどたどしい話し方だった。いつもクラスでは盛り上げ役で、よくしゃべる方なのに。普通に話してほしいと思ってしまう。
「俺、そのこと完全に忘れてて、そのせいで昨日松野、荷物チェックまでされて、その、申し訳なかったなって」
間接的とはいえ、こいつのせいで自分は警察に補導される羽目になった。自分を疑ってきた担任とも、今まで以上に気まずくなってしまっただろう。一言くらい、文句を言ってもバチはあたらないだろうと思ったときだった。
「すみませんでした!」
根岸が教室の床に頭をついた。お手本みたいにきれいな土下座だった。自分が来るまでに練習したんだろうか。その光景を想像してしまって、つい吹き出してしまった。遠巻きに見ているやつらが、予想外の自分の反応に戸惑っているのを感じる。
「良かったじゃん」
「え」
顔だけをあげた根岸が、きょとんとした表情でこっちを見てきた。
「財布。ちゃんと見つかって」
午後の授業のチャイムが聞こえてきた。いつ教師が教室に入ってきてもおかしくない。
「っていうか、いつまでその体勢でいるの。俺が土下座させてるみたいじゃん」
あまりに絵面が悪すぎる。勘違いされたらやっかいだ。良太は根岸の腕を取って立ちあがらせた。それと同時に教室の扉が開いた。山津だった。
そうか、次は生物か。
良太と目が合った山津は、いつもと同じのんびりとした口調で言った。
「仲がいいのは結構ですが、授業を始めますよ」
放課後、昨日の一件のお詫びとして、根岸がジュースをおごると言ってきた。一度は遠慮したものの、どうしてもと言われて自動販売機に来た。
「なんでおまえらも来るんだよ」
根岸と同じグループの二人までおまけにいる。
「土下座の練習付き合ってやっただろ」
やっぱりあの土下座の美しさは練習の成果らしい。
「根岸さ、めっちゃびびってたんだよ。殴られるんじゃないかって」
「そんなことするわけないだろ」
そこまで飛躍しているとは思っていなかった。あきれてため息が混じる。でもさ、と根岸がコーラの缶を開けながら言う。
「松野のこと、もっと怖いやつだと思ってた」
「兄貴のせい?」
しまった、という声が聞こえてきそうな顔だった。あとの二人も同じ顔をしている。
「俺、兄貴とは性格も顔も全然似てないんだよ、昔から。最近全然会ってもいないし」
だから、自分は自分として見てほしい、とまでは口に出せなかった。言えなかった言葉は、炭酸の泡と一緒にはじけて消えた。
「そうなんだ」
沈黙が流れる。こういうとき、なにを話していたのかを思い出せない。話さなければと思えば思うほど、頭から言葉が抜けていく感覚がする。気まずい時間を、コーラを飲み込む時間で埋めようとしたとき、根岸がなにかを見ていることに気がついた。
根岸の視線は、良太のカバンに向けられていた。
カバンの隙間からのぞいていたのは、朝獲得した猫耳カチューシャだった。とっさにカバンの奥に押し込んだが、もう手遅れだ。二人も気づいたようで、意外な趣味だねと引きつった笑みを浮かべている。
「これは俺の趣味じゃなくて、ラッキーアイテムで」
「いやいや、さすがにその言い訳は無理があると思うよ」
また変なうわさが立ってしまう。どう説明すれば信じてもらえるだろうと、考えを巡らせたときだった。
「松野、もしかしててんびん座?」
一緒にいた男子がなにかを思い出したように言った。
「そうだけど」
「朝の占いでしょ。俺も一緒だから覚えてる。確かに最下位のラッキーアイテムにあった」
「そう! それなんだよ」
「だからって持ってくるの面白すぎじゃない」
そこから始まった、誰が一番カチューシャが似合うか対決。恥ずかしいし、くだらない。でも自分が一番ほしかったのは、こんな時間だ。安っぽく、獲って後悔したくらいの猫耳のカチューシャだったけれど、確かにラッキーアイテムになってくれた。ほんの少しだけ、占いを信じてやってもいいかもしれないと思った。
それに気づかないふりをして、良太は自分の席につく。カバンから教科書とノートを取り出そうとしたとき、カチューシャが目に入ってきた。今朝起こったばかりのできごとなのに、もう何日も経ったような気がする。あんなに長く感じた午前は初めてだ。
「あの」
頭上から声が聞こえてきた。昨日財布がないと騒いでいた根岸が、気まずそうに立っている。良太は慌ててカバンのチャックを閉めた。
「なに」
クラスメイトと話すことが久しぶり過ぎて、テンションがわからない。自分が出そうと思っていた声よりも低くなってしまった。それに委縮してしまったのか、根岸がさらに肩を縮こまらせた。
「財布、あったんだ。その、自販機でジュース買ったときに、いったんベンチに財布置いて、それでそのまま」
たどたどしい話し方だった。いつもクラスでは盛り上げ役で、よくしゃべる方なのに。普通に話してほしいと思ってしまう。
「俺、そのこと完全に忘れてて、そのせいで昨日松野、荷物チェックまでされて、その、申し訳なかったなって」
間接的とはいえ、こいつのせいで自分は警察に補導される羽目になった。自分を疑ってきた担任とも、今まで以上に気まずくなってしまっただろう。一言くらい、文句を言ってもバチはあたらないだろうと思ったときだった。
「すみませんでした!」
根岸が教室の床に頭をついた。お手本みたいにきれいな土下座だった。自分が来るまでに練習したんだろうか。その光景を想像してしまって、つい吹き出してしまった。遠巻きに見ているやつらが、予想外の自分の反応に戸惑っているのを感じる。
「良かったじゃん」
「え」
顔だけをあげた根岸が、きょとんとした表情でこっちを見てきた。
「財布。ちゃんと見つかって」
午後の授業のチャイムが聞こえてきた。いつ教師が教室に入ってきてもおかしくない。
「っていうか、いつまでその体勢でいるの。俺が土下座させてるみたいじゃん」
あまりに絵面が悪すぎる。勘違いされたらやっかいだ。良太は根岸の腕を取って立ちあがらせた。それと同時に教室の扉が開いた。山津だった。
そうか、次は生物か。
良太と目が合った山津は、いつもと同じのんびりとした口調で言った。
「仲がいいのは結構ですが、授業を始めますよ」
放課後、昨日の一件のお詫びとして、根岸がジュースをおごると言ってきた。一度は遠慮したものの、どうしてもと言われて自動販売機に来た。
「なんでおまえらも来るんだよ」
根岸と同じグループの二人までおまけにいる。
「土下座の練習付き合ってやっただろ」
やっぱりあの土下座の美しさは練習の成果らしい。
「根岸さ、めっちゃびびってたんだよ。殴られるんじゃないかって」
「そんなことするわけないだろ」
そこまで飛躍しているとは思っていなかった。あきれてため息が混じる。でもさ、と根岸がコーラの缶を開けながら言う。
「松野のこと、もっと怖いやつだと思ってた」
「兄貴のせい?」
しまった、という声が聞こえてきそうな顔だった。あとの二人も同じ顔をしている。
「俺、兄貴とは性格も顔も全然似てないんだよ、昔から。最近全然会ってもいないし」
だから、自分は自分として見てほしい、とまでは口に出せなかった。言えなかった言葉は、炭酸の泡と一緒にはじけて消えた。
「そうなんだ」
沈黙が流れる。こういうとき、なにを話していたのかを思い出せない。話さなければと思えば思うほど、頭から言葉が抜けていく感覚がする。気まずい時間を、コーラを飲み込む時間で埋めようとしたとき、根岸がなにかを見ていることに気がついた。
根岸の視線は、良太のカバンに向けられていた。
カバンの隙間からのぞいていたのは、朝獲得した猫耳カチューシャだった。とっさにカバンの奥に押し込んだが、もう手遅れだ。二人も気づいたようで、意外な趣味だねと引きつった笑みを浮かべている。
「これは俺の趣味じゃなくて、ラッキーアイテムで」
「いやいや、さすがにその言い訳は無理があると思うよ」
また変なうわさが立ってしまう。どう説明すれば信じてもらえるだろうと、考えを巡らせたときだった。
「松野、もしかしててんびん座?」
一緒にいた男子がなにかを思い出したように言った。
「そうだけど」
「朝の占いでしょ。俺も一緒だから覚えてる。確かに最下位のラッキーアイテムにあった」
「そう! それなんだよ」
「だからって持ってくるの面白すぎじゃない」
そこから始まった、誰が一番カチューシャが似合うか対決。恥ずかしいし、くだらない。でも自分が一番ほしかったのは、こんな時間だ。安っぽく、獲って後悔したくらいの猫耳のカチューシャだったけれど、確かにラッキーアイテムになってくれた。ほんの少しだけ、占いを信じてやってもいいかもしれないと思った。