「こういうことは初めてですか」

 前を見たまま山津が聞いてきた。

「初めてです」

 どうせ信じてもらえないだろうと思いながらも答えた。

「そうですか。なら良かったです。深みにはまると抜け出すのが難しいですから」

 良太の予想とは反対に、山津はあっさりと信じたようだった。

「信じるんですか」

「うそなんですか」

「うそじゃないですけど」

「なら信じます」

 変な人だ。今までに出会ったことのないタイプの人間で、どう接するのが正解なのかがわからない。

「あの」

「なんでしょう」

「学校に連絡が入ったんですよね。ほかの先生はそれを聞いて、どんな反応でした?」

 答えは予想できている。でも、違っていてほしかった。

 信号が赤になる。優しく踏まれたブレーキが、心ばかりの自分への気遣いのようだった。こちらを向いた山津と目が合う。優しさと同情の混ざった視線が痛い。

「やっぱりな、って感じだったんじゃないですか」

 山津は少しの間黙ったあと、そうですねと答えながら前を向いた。

「松野君の言う通りです」

 かすかな期待は一瞬で消えた。無駄な望みを抱いていた自分に笑えてくる。

「普通、びっくりしたり心配したりしませんか。俺、今日まで一回も学校休んでいないんですよ。成績だって自慢じゃないけど学年で二十番以内をキープしてる。そんなやつが突然補導っておかしいと思いませんか」

 信号が青に変わる。少しずつ加速していくのを感じる。このままずっと遠くまで連れて行ってほしい。

「どれだけ真面目にやったって、結局兄貴の存在で全部打ち消される。俺が頑張る意味なんてないですよね」

 こんなこと山津に言ったって仕方ない。わかっているのに、もう我慢できなかった。

「松野君」

 落ち着いた、静かな声だった。今は慰めも教えもいらない。この現状を変える手段がないのなら、もう放っておいてほしい。自分の意思に反してゆがむ顔を隠したくて、両手を顔に近付けた瞬間だった。

「君、ヘビは好きですか」

「は?」

 視界が涙でにじんで、山津の顔がうまく見えない。

「ヘビ?」

「えぇ、あの細長い動物のヘビです」

 それは知っている。けど、そのヘビがどうしたというのか。突然会話に現れてきたヘビに思考が停止する。ウインカーがクイズ番組のカウントダウンのように音を立てている。

「嫌いですか」

 山津がハンドルを切りながら聞いてくる。

「好きではないですけど」

「どうしてですか」

「どうしてって」

 改まって聞かれると困る。

「なんとなく、怖いから。見た目とか、毒で人に危害を加えそうで」

 良太の答えを聞いて、山津がふふっと小さく笑った。

「俺、なんか変なこと言いました?」

「いえ。そんなことはないですよ」

 ただ、と山津は続ける。

「実際にはおとなしい個体も多いですし、毒を持つヘビは全体の四分の一ほどです」

 だからどうした。それが率直な感想だった。

「どうです? 少しはヘビに対するイメージは変わりましたか?」

「まぁ、少しは」

 そう答えながら。自分はどうしてこの人に思いをぶちまけてしまったのだろうと後悔した。

 いつの間にか、外は見覚えのある景色に変わっている。学校が少しずつ近づいている。このあと教室に入らなければいけないと考えると憂鬱でしかない。クラスメイトにこのことは知られてしまっているのだろうか。もしそうだとすると、もともと空いていた距離がもっと広がる。良太は小さくため息をついた。

「今の君はヘビです」

「え?」

「誰かから聞いた話や、一部だけ切り抜かれた情報で、勝手に怖いというイメージを持たれてしまっています」

 ヘビと同じにしないでほしい。ヘビは避けられたって痛くもかゆくもないだろう。自分は、痛いし寂しいし苦しいのに。けれど、今日初めて山津の言葉が体の中にするりと入り込んできたような気がした。

「ほんの少し、意外な一面を知ってもらうことができたら、まわりの見方も変わるのではないでしょうか」

 ずっと、諦めていた。今の環境を変えるには、翔太の存在が知られていないところに逃げるしかないと思っていた。自分は、今までに自分自身を知ってもらおうとしたことが一度でもあっただろうか。

 過去の自分を振り返っている間に、車は学校の駐車場に到着した。

「午後の授業は出られそうですか」

 車の扉を閉めながら山津は聞いてきた。

「行きます」

 山津はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながらうなずいた。ではこれで、と職員の下駄箱がある方へ山津は歩き始める。

「山津先生!」

 その背中に向かって良太は呼び掛けた。山津がくるりと振り返る。

「怖がられているヘビでも、誰かと仲良くなれますか」

「もちろんです。ペットとして飼っている人もいるくらいですから。ちなみに私もいつか飼ってみたいと思っています」

 山津はひらりと右手をあげて、また歩き始めた。

 やっぱり変な人だと思った。