誰とも話さずに時間が過ぎていくのは、今日に限ったことではない。

 休み時間は大抵机に突っ伏して寝ているか、図書室で借りてきた小説を読んでいる。
 もともと本を読む習慣はなかったが、一人きりの休み時間を潰すのにはちょうど良かった。あわよくば、自分に向けられるイメージも変わるのではないかとも思ったが、効果は皆無だった。

 教室の後ろの方で、数人の男子が落ち着きない様子で話す声がする。なんとなく気になって聞き耳を立てていると、どうやら財布がなくなったようだ。どうせ家に置き忘れてきたんだろうと、良太は読んでいる小説に戻る。いつもならすぐに物語の世界に入り込むことができる。けれど、今日は目が文字を追うばかりだ。ふと視線を感じ、顔をあげて気がついた。

 みんなが自分のことを見ている。

 あぁ、なるほどね。

 そう思ったとき、休み時間の終わりを告げるチャイムとともに担任が教室に入ってきた。普段と違う空気を感じ取ったのか、眉をひそめた。そんな彼のところへ、根岸が駆け寄って財布がないことを話している。

「根岸の財布がなくなったらしい。念のため全員カバンの中を確認して」

 誰も自分のカバンにあることなんて考えもしていないだろう。形だけの捜索が始まった。

 担任が、自分の横を通るときだけ歩みが遅くなる。担任にまで疑われているらしい。なにもしていないのに、ここまで人の見る目が変わるということが、悲しさを通り越して面白くなる。笑いそうになるのをなんとか堪えながら顔をあげた。良太と目が合った担任の顔が一瞬こわばった。

「見ます?」

 このまま疑い続けられるくらいなら、いっそのこと全部調べてもらった方がこっちとしてもありがたい。

「いいのか」

「どうぞ」

 担任は良太のカバンに手を伸ばした。静まり返った教室で、カバンの中のものがこすれあう音だけが聞こえてくる。

「なさそうだな」

 ここまでしても、まだ自分に向けられる視線は変わらない。盗んだ後、すでにどこかに隠しているとでも思っているのだろうか。完全に疑いを晴らす手段なんてきっとない。

 結局財布は見つからなかった。いら立ちを隠しきれていない根岸に、担任は「学校側でも探してみるから」となだめるだけだった。

 いつもの早朝の電車に揺られて学校に向かう。学校に着くまでに二十個覚えられるはずの単語が、今日は一つも頭に入ってこない。原因はわかっている。昨日のことがいまだに消えずに残っているからだ。

 疑われるのにも慣れたはずだった。自分はなにも悪くない。だったらそれでいい。卒業したら、もっと遠くに行こう。今度は電車で行けないもっと遠くへ。今度こそ、翔太の存在がない場所へ。

 見慣れた駅で電車が止まる。電車のドアから、良太と同じくらいの歳の二人組が乗り込んできた。これから部活の朝練なのか、高校の名前の入ったジャージを着ている。おそろいのスポーツバッグを足元に置いて、二人はスマホでゲームをしながら楽し気に話し始める。クラスの誰がタイプだとか、昨日見たお笑い番組が面白かっただとか、今日の授業で当てられる確率が高いだとか、そんなどうでもいい話だった。彼らにとっては、きっと当たり前の日常の一コマだ。

 どうして自分は手に入れられないのだろう。

 良太は二人から目を逸らした。まぶしくて羨ましい光景を、これ以上見ているのが苦しかった。いつも通り過ぎているだけの駅に逃げるようにおりた。ベンチに座って背もたれに体を預けて大きく息を吐いた。

 行きたくないな。

 そう思ったことは数えきれないくらいにある。それでも、一度だって休んだことはない。一度でもサボってしまえば、大嫌いな翔太と同じになってしまうような気がする。同じところなんて、一つも作りたくなかった。

 次の電車には乗ろうと思った。それなのに、電車が来ても足が動かなかった。この次は必ず乗れと自分に命じても体が言うことを聞かない。何本も見送っているうちに、とうとう学校が始まる時間になってしまった。意地だけでやってきた皆勤もここで終了だ。

 クラスメイトや担任は、今ごろ自分が逃げたと思っているだろうか。もしかしたら、いないことにすら気づかれていないかもしれない。

 まぁどっちでもいいか。

 ずっと座っていたせいか腰が痛い。立ち上がって、組んだ腕をぐっと空に伸ばす。ついさっきまで動かなかったのがうそみたいに体は動いた。今からでも学校に行った方がいいのはわかっている。けれど教室に遅刻して入って、みんなの視線を集めるのは嫌だった。とはいえ、このままだと無断欠席で母親に連絡がいくだろう。仕事中は電話に出ないとはいえ、履歴が残ってしまうのは間違いない。どんな選択をしても面倒だ。

 どうするのが一番マシかを考えていると、視界にビルの看板が入ってきた。この近くにゲームセンターがあるらしい。

 一日くらい、サボったっていいよな。

 誰に対してかわからない言い訳を心の中で呟いて、良太はまだ一度も通ったことのない改札を抜けた。