スマホのアラームが、松野良太を眠りの世界から引きずりあげた。
午前五時。少し前までなら、この時間は空が明るくなっていたはずだ。涼しくなるにつれ、太陽は顔を出す時間を遅くしていく。そのことが少しうらやましく感じる。
サイドテーブルに置いた眼鏡をかけて部屋を出る。一階から、味噌汁のにおいが漂ってきた。
「おはよう」
リビングに下りると、母親が朝食を並べているところだった。良太の顔を見て、ふふっと小さく笑う。
「なに」
「寝ぐせ、すごいよ」
頭に手をやると、確かに重力に逆らっている毛束が存在している。髪質が固いせいか、一度こうなってしまうと直すのに時間がかかってしまう。面倒だと思いながら、椅子に座った。自分と目の前の母親の席にあるグラスに麦茶を注ぐ。いつものルーティンだ。
食卓に並んでいるのは、ご飯と目玉焼き、みそ汁と弁当の残りが少し。これもいつも通りだ。テレビではちょうど星座占いが流れ始めた。良太は全く興味がないが、母がこの占いを見るのを楽しみにしている。
「やだ、最下位じゃない」
良太の正面に座った母が眉をひそめた。良太は母親と同じてんびん座だ。信じていないとはいえ、最下位はすっきりしない。「思いがけないトラブルに巻き込まれてしまうかも」と、ウサギのキャラクターが頭を抱えている。そんなウサギにカメが救いの手を差し伸べる。ラッキーアイテムは、猫耳カチューシャらしい。
「持ってないわねぇ」
のんびりとした口調で母が言う。
「あったらつけるのかよ」
目玉焼きの白身を口にいれたとき、家の外からバイクが走る音が聞こえてきた。
一瞬、あいつが帰ってきたのかと思った。けれどすぐにバイクの音は過ぎ去っていく。それなのに、母が箸を持つ手は止まったままだ。
「母ちゃん」
「どうしたの」
どんな表情で外を見ていたのか、自分では気づいていないらしい。バイクの音がするだけで、期待と不安に満ちた顔をするのはやめてほしい。
「今でもあいつに帰ってきてほしいって思ってんの」
「翔太のことをあいつって言わないの」
小さな子どもをたしなめるような話し方だった。
「良太のお兄ちゃんなんだから」
ふざけんな。
あいつのせいで、周りからどんな目で見られているか知らないはずはない。自分にとってどれだけ不都合な存在の人間でも、同じ家に生まれてきたからというだけで、名前を呼ばないだけでとがめられなければいけないのか。
のど元まで込み上げてきた言葉を、まだ熱いみそ汁と一緒に飲み込んだ。
早朝の電車の車両は、いつでも座れるくらいに空いている。片道二時間の通学の中で、唯一良かったと思える点だ。
まぁ、結局なんの意味もなかったけれど。
ふと顔をあげると、週刊誌のつり革広告が目に入ってきた。イクメン俳優の不倫の見出しの隣に、引きこもりの高校生が家族を殺害した記事がある。
これよりはマシか。
上には上がいる。その逆もまたしかりで、下には下がいる。自分は、最低ではない。そう自分に言い聞かせることで、なんとか心を保ってきた。
松野翔太は、良太の四つ上の兄だ。ものすごく仲が良かったというわけではないが、たまに一緒にゲームをしたり、外食をしたり、どこにでもいる普通の兄弟だったと思う。ただ、翔太を取り巻く環境がどこかのタイミングで大きく変わってしまった。地元であまり評判の良くない友達とつるむようになって、学校の呼び出しや補導がしょっちゅう起こるようになった。人に流されやすいところと、体格が良かったこと、祖父の勧めで武道をやっていたこと、たくさんの要因が悪い方向へ流れてしまった。いつの間にか、地元でも有名な不良グループでも立場が上の方になってしまったらしい。
うわさ好きの人が多いこともあって、翔太の悪行はたちまち広まった。おまけに昼夜問わずに仲間たちとバイクを乗り回すものだから、当然苦情は家に来る。両親が近所の人たちに頭を下げている姿を、数えきれないくらいに見ていた。そんな環境に最初に音をあげたのは父だった。気弱で事なかれ主義の性格には耐えきれなかったのだろう。翔太が中学二年のときに離婚して出ていった。
人は悪いうわさほど広めたがり、そして気になってしまう。それはおとなも子どもも同じだ。いつからか、周りの自分を見る目が変わっていくのを感じていた。小学生のころ、生活指導の先生が「一人が悪い事をすると、みんなが悪く見られる」と、言っていたのを思い出した。初めて聞いたときは納得できなかった言葉が、どれほど正しいのかを思い知らされた。そして、その逆は起こらないということを、嫌というほど感じさせられた。
そこから逃げるには、翔太の存在を知られていない場所に行くしかない。偏差値や校風よりも、とにかく通える範囲の一番遠い学校を選んだ。片道二時間。往復四時間。三年間でどれだけの時間になってしまうのかは、怖くて計算できないままでいる。
けれど、そんな苦労も気にならないほど、翔太というフィルターを通さずに自分を見てもらえることは心地よかった。久しぶりの普通の学校生活は、またしても翔太によって壊された。
どこから漏れたのかは定かではないが、おおかた保護者の情報網だろうとは思う。翔太の存在がみんなに知られてしまったのだ。以前にも感じた警戒と不安の詰まった視線を、またしても感じてしまった。その空気を無視して、友達のところに飛び込む勇気はなかった。拒否されるくらいなら、自分から避けてしまった方がよっぽど楽だ。たった半年で、通学時間と引き換えに手に入れた穏やかな学校生活は消え去ってしまった。それは、二年にあがった今でも変わらない。
良太はカバンの中から英単語帳を取り出した。家にいる時間はそんなに長くはない。通学時間は、勉強時間も兼ねている。静かな車内の空気は、意外と集中できる。おかげで二年にあがってから、英語の小テストはずっと満点だ。どれくらい成績が良くなれば、翔太とは違う人間だとわかってくれるだろう。
「prejudice先入観」
目に入る単語を小さな声で読みあげる。車内に誰もいないときだけにできる暗記のやり方だった。
午前五時。少し前までなら、この時間は空が明るくなっていたはずだ。涼しくなるにつれ、太陽は顔を出す時間を遅くしていく。そのことが少しうらやましく感じる。
サイドテーブルに置いた眼鏡をかけて部屋を出る。一階から、味噌汁のにおいが漂ってきた。
「おはよう」
リビングに下りると、母親が朝食を並べているところだった。良太の顔を見て、ふふっと小さく笑う。
「なに」
「寝ぐせ、すごいよ」
頭に手をやると、確かに重力に逆らっている毛束が存在している。髪質が固いせいか、一度こうなってしまうと直すのに時間がかかってしまう。面倒だと思いながら、椅子に座った。自分と目の前の母親の席にあるグラスに麦茶を注ぐ。いつものルーティンだ。
食卓に並んでいるのは、ご飯と目玉焼き、みそ汁と弁当の残りが少し。これもいつも通りだ。テレビではちょうど星座占いが流れ始めた。良太は全く興味がないが、母がこの占いを見るのを楽しみにしている。
「やだ、最下位じゃない」
良太の正面に座った母が眉をひそめた。良太は母親と同じてんびん座だ。信じていないとはいえ、最下位はすっきりしない。「思いがけないトラブルに巻き込まれてしまうかも」と、ウサギのキャラクターが頭を抱えている。そんなウサギにカメが救いの手を差し伸べる。ラッキーアイテムは、猫耳カチューシャらしい。
「持ってないわねぇ」
のんびりとした口調で母が言う。
「あったらつけるのかよ」
目玉焼きの白身を口にいれたとき、家の外からバイクが走る音が聞こえてきた。
一瞬、あいつが帰ってきたのかと思った。けれどすぐにバイクの音は過ぎ去っていく。それなのに、母が箸を持つ手は止まったままだ。
「母ちゃん」
「どうしたの」
どんな表情で外を見ていたのか、自分では気づいていないらしい。バイクの音がするだけで、期待と不安に満ちた顔をするのはやめてほしい。
「今でもあいつに帰ってきてほしいって思ってんの」
「翔太のことをあいつって言わないの」
小さな子どもをたしなめるような話し方だった。
「良太のお兄ちゃんなんだから」
ふざけんな。
あいつのせいで、周りからどんな目で見られているか知らないはずはない。自分にとってどれだけ不都合な存在の人間でも、同じ家に生まれてきたからというだけで、名前を呼ばないだけでとがめられなければいけないのか。
のど元まで込み上げてきた言葉を、まだ熱いみそ汁と一緒に飲み込んだ。
早朝の電車の車両は、いつでも座れるくらいに空いている。片道二時間の通学の中で、唯一良かったと思える点だ。
まぁ、結局なんの意味もなかったけれど。
ふと顔をあげると、週刊誌のつり革広告が目に入ってきた。イクメン俳優の不倫の見出しの隣に、引きこもりの高校生が家族を殺害した記事がある。
これよりはマシか。
上には上がいる。その逆もまたしかりで、下には下がいる。自分は、最低ではない。そう自分に言い聞かせることで、なんとか心を保ってきた。
松野翔太は、良太の四つ上の兄だ。ものすごく仲が良かったというわけではないが、たまに一緒にゲームをしたり、外食をしたり、どこにでもいる普通の兄弟だったと思う。ただ、翔太を取り巻く環境がどこかのタイミングで大きく変わってしまった。地元であまり評判の良くない友達とつるむようになって、学校の呼び出しや補導がしょっちゅう起こるようになった。人に流されやすいところと、体格が良かったこと、祖父の勧めで武道をやっていたこと、たくさんの要因が悪い方向へ流れてしまった。いつの間にか、地元でも有名な不良グループでも立場が上の方になってしまったらしい。
うわさ好きの人が多いこともあって、翔太の悪行はたちまち広まった。おまけに昼夜問わずに仲間たちとバイクを乗り回すものだから、当然苦情は家に来る。両親が近所の人たちに頭を下げている姿を、数えきれないくらいに見ていた。そんな環境に最初に音をあげたのは父だった。気弱で事なかれ主義の性格には耐えきれなかったのだろう。翔太が中学二年のときに離婚して出ていった。
人は悪いうわさほど広めたがり、そして気になってしまう。それはおとなも子どもも同じだ。いつからか、周りの自分を見る目が変わっていくのを感じていた。小学生のころ、生活指導の先生が「一人が悪い事をすると、みんなが悪く見られる」と、言っていたのを思い出した。初めて聞いたときは納得できなかった言葉が、どれほど正しいのかを思い知らされた。そして、その逆は起こらないということを、嫌というほど感じさせられた。
そこから逃げるには、翔太の存在を知られていない場所に行くしかない。偏差値や校風よりも、とにかく通える範囲の一番遠い学校を選んだ。片道二時間。往復四時間。三年間でどれだけの時間になってしまうのかは、怖くて計算できないままでいる。
けれど、そんな苦労も気にならないほど、翔太というフィルターを通さずに自分を見てもらえることは心地よかった。久しぶりの普通の学校生活は、またしても翔太によって壊された。
どこから漏れたのかは定かではないが、おおかた保護者の情報網だろうとは思う。翔太の存在がみんなに知られてしまったのだ。以前にも感じた警戒と不安の詰まった視線を、またしても感じてしまった。その空気を無視して、友達のところに飛び込む勇気はなかった。拒否されるくらいなら、自分から避けてしまった方がよっぽど楽だ。たった半年で、通学時間と引き換えに手に入れた穏やかな学校生活は消え去ってしまった。それは、二年にあがった今でも変わらない。
良太はカバンの中から英単語帳を取り出した。家にいる時間はそんなに長くはない。通学時間は、勉強時間も兼ねている。静かな車内の空気は、意外と集中できる。おかげで二年にあがってから、英語の小テストはずっと満点だ。どれくらい成績が良くなれば、翔太とは違う人間だとわかってくれるだろう。
「prejudice先入観」
目に入る単語を小さな声で読みあげる。車内に誰もいないときだけにできる暗記のやり方だった。