教室の隅に、一人の女の子が見えた。通っていた中学校の制服を着ている。まただ、と美穂は思う。今でもときどきあの子は現れる。中学三年生の自分だ。うつむいて、ただ時間が過ぎるのを待っている。

 あの子が透明人間になったのは、ほんのささいなことがきっかけだった。仲良しグループの一人が片思いしていた男子と親しげに話していたから。それだけだ。そんな数分にも満たない時間が、一緒に過ごした何年もの時間をゼロではなくマイナスにすることもある。話しかけても答えてもらえず、いつの間にか自分以外でおそろいのミサンガをこれみよがしに付け始めた。明らかに仲間でない人たちの中に飛び込む勇気なんてなかった。

 それが三年の秋ころだったのが、不幸中の幸いだった。受験勉強をするといういいわけと、あと少しでどうせさよならだということが、美穂を支えてくれた。あれがもう少し早ければ、自分はどうなっていたか、想像するだけでも恐ろしい。

 廊下から聞こえる誰かの足音で、意識はまだ進んでいない課題に戻ってきた。足音は美穂の教室の前で止まり、同時に扉が開かれた。

「苦戦しているようですね」

 担任が様子を見に来たのかと思った。けれどそこに立っていたのは生物担当の山津だった。

 おそらく部活の顧問の仕事があった担任が、様子見のために送り込んだのだろう。山津との交流は週三回の生物の授業のときくらいで、まったくと言っていいほど話したことはない。あえてそんな先生を選ばなくてもいいじゃないか。自分が時間内に完成させられなかったのが悪いのはわかってはいるが、担任のことを少しだけ恨んだ。

 長所の欄が空白になっているのを見て、山津が小さく笑った。なにが面白いんだ。心の中の声が聞こえたかのように、山津がすみませんと片手をあげた。

「私も学生時代、その項目が一番苦手だったものですから」

「そうなんですか」

「えぇ、語れるほどの長所なんてありませんでしたし、あっても恥ずかしくて書けません」

「わかります、それ」

 美穂が答えると、山津は意外そうに目を見開いた。

「立花さんにはたくさんいいところがあると聞きましたよ」

「え」

「友達思いで家族思いの優しい生徒だと、うわさは私まで届いています」

 違う。美穂は握っていたシャーペンに力をこめた。ペン先が手のひらに食い込んで痛い。

 うそつきの自分への罰みたいだ。

「それ、間違ってます」

 言ってはいけない。ばれたらいけない。人にはいい顔をしておいて、本当の心は真っ黒だなんて。頭ではわかっているのに、どんどんたまっていく罪悪感はもうあふれかえっている。

「私はそんなにいい人じゃない」

 今ならまだ引き返せる。この三年間うまくやってきたつもりだ。これ以上話すなと自分に言い聞かせる。

「続けてください」

 山津は授業中みたいな、いつもと同じ落ち着いた声で言ってきた。この人なら、なにを言っても驚いたり、失望したりしない気がする。自分がそう思いたいだけなのかもしれない。

 そこから自分がなにを話したのか、はっきりとは覚えていない。めちゃくちゃな日本語で、ただ思いつくままに自分の醜い中身を吐き出した。それを山津はただ黙って聞いていた。共感も、軽蔑も、同意も、注意も、なにひとつしてこない。否定も肯定もされないことが、こんなにも楽だと知らなかった。

「私は、たくさんの人をだましてる。でもそうしなきゃ、また」

 さっきと同じ席に、まだあの日の自分が座っている。私はもうあの子になりたくない。

「君はカメレオンですね」

「え?」

 一瞬、聞き間違いかと思った。そんな美穂に、山津はもう一度「カメレオンです」と言った。突然出てきたカメレオンの意味を考えていると、山津がポケットからスマホを取り出した。なにかを入力して、美穂に画面を向ける。そこには、緑色のカメレオンが映っていた。

「これがなにかわかりますか」

「カメレオン?」

「正解です。ではもう一枚」

 山津は人差し指で、画面をスライドさせた。同じ形のカメレオンがいる。体はさっきとは違うオレンジ色だった。

「これはなんでしょう」

「なんでそんなこと聞くんですか」

 山津がなにをしたいのかがわからない。

「さっきと同じじゃないですか」

「その通り。よくわかっていますね」

 意味がわからないを通り越して、馬鹿にされている気がしてきた。もう帰りたい。瑠璃に言われたことをそのまま書こう。なにか言われても、友達に教えてもらったと伝えればいい。自分はそんなふうに思っていないことを強調すればいいんだ。ようやくいい考えを思いついた。シャーペンを持ち直したときだった。

「外から見える色が変わっても、中身はひとつです」

 顔をあげると、山津はスマホの中のカメレオンを、愛しげに見ていた。

「生きるために様々な色を使うことは、そんなに悪いことでしょうか」

 山津の言葉が胸に刺さった気がした。自分はずっと、大きな思い違いをしていたのではないか。

「カメレオンは偽りの色をみせているわけではありません。どれも大切な彼ら自身の色だと思いますよ」

 どんな色でも、自分自身の色。自分が作り出した色は、決して元の色を薄めていたわけじゃない。それも含めて、全部自分の色だった。

 机の上に二枚目のカメレオンと同じ色の光が差してきた。雨は通り雨だったようで、雲の切れ間から夕日が顔をのぞかせている。瑠璃は雨に当たらずに帰れただろうかとふと思った。

 静かな教室に、校内呼び出しのチャイムが鳴った。「山津先生、校長室までお願いします」と校長の声で流れてくる。

「何歳になっても、呼び出しというものは緊張しますね」

 山津が肩をすくめながら笑った。

「一人で完成させられそうですか」

「大丈夫です」

 うそじゃない。久しぶりに、自分の本当の気持ちを口にした。美穂の言葉を聞いて、山津はゆっくりとうなずいた。

「終わったら教卓の上に置いておいてください。回収して担任の先生に渡しておきます」

 ひらりと片手をあげて、山津は教室を出て行った。

 美穂はシャーペンを持ち直す。ずっと真っ白だった欄に、ようやく文字が綴られ始めた。