結局敦はいつもの風邪で、もう名前も使い方もしっかり覚えた薬を受け取って終わりだった。病院からの帰り道の途中にスーパーはあるが、さすがに熱のある敦を連れて行くのはかわいそうだ。手間だけれど、一度家に帰るしかない。

「ごめんね、お姉ちゃん」

 布団に寝かせた敦が、熱で潤んだ瞳で美穂を見上げてきた。

「別に謝ることじゃないでしょ」

 謝るぐらいなら、熱なんか出さないでよ。

 無茶苦茶なことを考えているのはわかる。けれど、どうしてもそんなことを思ってしまう自分の心の狭さが恥ずかしい。

「うん、ごめん」

 また敦が謝ってきた。

「じゃ、買い物行ってくるから。おとなしくテレビでも観てて」

 テレビの電源だけ入れると、夜のニュース番組がやっていた。カンガルーの赤ちゃんが、ポケットから顔を出している映像が流れている。スタジオにいる人たちが、口々にかわいいと声をあげている。この中の何人が、本当に心からかわいいと思っているのだろうか。

「うわ、かわいい」

 動物好きの敦が、一瞬で目を輝かせた。素直にかわいいと思えない自分だけが、この世界から浮いている気がする。その場から逃げるように、机の上のお財布と買い物バッグを持って玄関に向かう。後ろから行ってらっしゃいとかすれた敦の声がした。


 スーパーで買い物を終え、ネギが顔をのぞかせる買い物袋を抱えて、アパートの階段をのぼっていたときだった。

「あら美穂ちゃん」

 後ろから聞きなれた声がした。振り返ると、二つ隣に住む森田さんがいた。おせっかいとうわさ話が大好きなおばさんで、見かけるといつも声をかけてくる。

「お買い物?」

「はい、お母さんが急に仕事になって」

「偉いわねぇ。本当、うちのバカ娘が高校生のころとは大違いだわ」

 バカ娘。そう口では言いながらも、森田さんは嬉しそうだ。森田さんの娘はとにかく旅が好きな人で、お金がたまれば旅に出て、お金が無くなれば働くという生活を繰り返しているらしい。たまに美穂の家にもお土産を持ってきてくれる。渡り鳥みたいな人だと思う。自由で、なににも縛られない生き方をできる彼女が心底うらやましい。

 いつだったか、近所の人にいつまでたってもふらふらしていると言われていたことを思い出す。誰にも迷惑かけていないのに、どうして悪く言われなきゃいけないんだろう。道を塞いで立っているあんたたちのの方がよっぽど邪魔なのに。なんて、口が裂けても言えないけれど。

「美穂ちゃんも大変だと思うけど無理しちゃだめよ」

「いえ、お母さんの方が大変ですから」

 作り笑いと、その場に一番ふさわしい言葉を選ぶことだけは、どんどん得意になっている。そのたびに、本当の自分が薄まっていく気がする。

「本当、偉いわねぇ」

 森田さんは、なんの疑いも持っていない。ご褒美、と言いながら、美穂の買い物袋にリンゴを一つ入れてくれた。
 うそ一つ分、右手にかかる重さが増えた。


 次の日の最後の授業は、大学受験の願書の書き方の練習だった。生年月日、住所、部活、学生時代に打ち込んだこと。そこまでは順調に埋めることができた。けれど、一つだけ、どうしても埋められない箇所がある。

 自分の長所。

 その欄をただ見つめているだけで、あっという間に授業終了のチャイムが鳴った。仕上げた人から帰っていいと言われ、クラスのほとんどが出て行ってしまう。

「美穂まだできてないのぉ?」

 瑠璃がスクールバッグを担ぎながら、願書を覗き込んできた。白紙のままの右側のページに視線が落とされているのを感じる。

「そんなの適当に書いちゃいなよ」

「その適当が難しいんだよ」

「じゃ、一緒に考えてあげる」

 瑠璃が美穂の隣の席に座った。

「まず長所でしょ、えっとね、いっぱいあるよ」

 そう言って、瑠璃が指を一本ずつ立てていく。

「優しい、面倒見がいい」

 形のいい爪が、薄いピンク色で染められている。マニキュアを塗ることは校則違反だ。教師にばれるかばれないかのラインを渡るのは、そんなに楽しいのだろうか。

「あと宿題見せてくれる、意外と勉強できる」

「意外は余計」

 そう言って、すぐにしまったと思った。今の言い方だと、自分が勉強できると思っていると認めたようなものだ。瑠璃はそんな美穂の後悔に全く気づいていない。

「あはっ、ごめんごめん。あとはー」

 瑠璃はまだ長所を挙げてくれる。どうしてだろう。褒められているはずなのに、居心地が悪い。小学生の頃、母親に点数の悪い宿題を隠していたときと同じ気分がする。

 自分は優しくなんてない。自分の時間を邪魔する敦の存在が疎ましい。押しつけてくる母にもいらだつ。そのたびに、自分の心の狭さに嫌気がさす。面倒見だって本当は良くない。素っ気なくしたら、周りにどう思われるかが怖いから、気にかけているふりをしているだけ。宿題を見せるのも、瑠璃たちが怒られてほしくないからじゃない。どんな形であれ役立っていれば、一人になることはないから助けてあげているふりをしているだけだ。

 全部、やってあげたいからでもなく、いい人のふりをしたいからだ。一人になりたくないからだ。自分はみんなをだましている。
本当の美穂の姿を知らない瑠璃は、まだ長所を考えてくれている。そんな瑠璃から逃げるように、教室の窓に目を向けた。外はまだ夕方なのに薄暗い。

「瑠璃、雨降りそうだよ」

「うわ、本当だ」

「今ならまだ家まで降らないんじゃない?」

「そうかも。傘持ってないし、急いで帰る」

 瑠璃がスクールバッグを持って立ちあがった。持ち手で、狐のキーホルダーが揺れている。修学旅行で美穂を含めたグループ五人で、おそろいで買ったものだ。狐にしては大きすぎる目が少し怖い。けれど、みんながかわいいと言ったから、同じ言葉を口にした。狐は美穂のバッグで、今もぶら下がっている。これが付いている間は、一人じゃないと思わせてくれる。

 とうとう教室は美穂以外誰もいなくなってしまった。静かで寂しい。けれど、すごく息がしやすかった。一人に一つずつ、教室があればいいのにと思う。みんなが一人なら、自分が一人でも惨めじゃない。みんなが一人じゃないのに、自分だけ一人なのが一番怖い。まるで自分が透明人間になったような気がしてしまうから。